名胡桃城のなごりの詳細

名胡桃城のなごり
城のなごり
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記事タイトル 名胡桃城のなごり
概要

■名胡桃城■ (なぐるみじょう)真田氏ゆかりの連郭式の山城です。沼田城の支城的な役割を担い、秀吉の小田原征伐の原因となった城としても知られています。場所は群馬県利根郡みなかみ町(旧月夜野町)。小説やドラマでの登場も多いため関心はあったのですが、なかなか行くチャンスに恵まれず、この…… more 日が初めての訪問となりました。■築城■真田昌幸の城という漠然としたイメージしかありませんでしたが、築城はもっと古く、1492年頃に沼田氏の一族である名胡桃氏の館が築かれたことが城の始まりとされています。戦国期になると、沼田城を含めたこのエリアは激戦区となります。越後の上杉氏に従うのか、あるいは小田原の北条氏に従うのか、小さな勢力としては大変迷うところです。沼田氏はやがて内紛から崩壊していきますが、これは上杉・北条双方の圧力と無縁ではありません。後に侵攻してくる真田は武田氏配下ですから、ほんとうに激戦区ですね。逆に言えば、覇権を争う三つの勢力にとって、大変重要な場所だったことになります。■旧月夜野町■月夜野町(つきよのまち)。なんだか美しい響きですね。現みなかみ町は水上町・新治村とこの月夜野町が合併して誕生した町。名胡桃城は、古い言い方だと「月夜野の城跡」です。月夜野の名は、平安時代の京の歌人がこの地を訪れ、三峰山に昇る月を見て感動し、歌を詠んだことに由来するそうです。素敵な名前ですね。<三の丸と馬出付近>この三の丸入口付近が馬出跡となっています(現地ではちょっと分りにくく、後から知りました)。真田氏の家紋「六文銭」をあしらった赤いのぼり旗。気持ち良さそうに風にたなびいています。大河ドラマ「真田丸」の影響もあり、結構気合が入ってますね。ここに限らず、上田市や長野市など真田ゆかりの地にPR用として掲げられています(PRは長野・群馬両県13市町村で展開)。真田街道は真田幸隆・昌幸・信之が統治した地を結ぶ道。六文銭の家紋は有名ですね。三途の川での渡し賃。つまり「いつでも死ぬ覚悟はできているぜ」という武士の覚悟を示すもの。私は真田幸村の最期が頭をかすめます。■鈴木重則■ 鈴木主水沼田氏の去ったあとの「名胡桃館」の主は鈴木重則(鈴木主水)。武田勝頼の家臣として真田昌幸が沼田へ侵攻するとこれに従いました。真田氏により館が改修された後も、鈴木重則は城を任されました(城主あるいは城代として)。この人はとても実直な人柄で、仲間からの信望の厚い武将だったそうです。つまり出来た人。そう聞いてしまうと、後の事件が痛々しく感じてなりません。鈴木重則が城を任されている時に、名胡桃城は北条側に乗っ取られてしまいます。重則はこれを恥じ、自害して果てました。■豊臣秀吉が決めたルール■●全国共通ルール大名同士が勝手に争ってはいけません!(惣無事令)●沼田特別ルール(沼田領裁定)沼田城を含む2/3は北条のもの、名胡桃城を含む残り1/3は真田のものこれで納得しないさい!真田昌幸が名胡桃城を「祖先墳墓の地」であると主張したこともあり、とりあえずこの裁定で納まりました。昌幸の主張の根拠はどうも嘘のようですが、ここで重要なのは、天下人である豊臣秀吉が決定したということ。誰も許可なくこれに違反することは許されません。■名胡桃城事件■沼田城が北条氏に引き渡された後の話になります。沼田城・城代となった北条配下の猪俣邦憲が、名胡桃城・城主(城代?)鈴木重則を欺き、上田城に呼び寄せている隙に名胡桃城を占領してしまいました。天下人の仲裁で成立した和議が反故に。これはえらいことをしてしまいましたね。猪俣邦憲は、鈴木重則の配下である中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で城外へと誘き出し、その間に城を乗っ取らせたようです。重則は上田へ向かう途中で(岩櫃城において)騙されたことに気付き、急ぎ名胡桃城へ引き返そうとしましたが間に合いませんでした。真面目で責任感の強い重則。その結末は先述の通りです。■猪俣邦憲■鉢形城主である北条氏邦に仕えていたとされています。ただ、猪俣氏は代々小田原北条氏に仕えた富永氏の一族であることから、北条氏直属の家臣ともいわれています。ですから名胡桃城強奪の件も、誰の計略なのか意見が分かれます。北の拠点だった鉢形城・城主の氏邦の指示?小田原の本城にいる氏政の指示?あるいは古くから北条配下だった猪俣氏の独断?どれもあり得ますね。■小田原征伐■真田昌幸は直ちに徳川家康を通して天下人へ訴えます。これを受け、秀吉は北条氏との手切れ書を北条氏や諸大名に配布。小田原征伐の始まりです。<堀と土橋>二の丸と三の丸を隔てる空堀跡。沼田城が江戸時代も引き続き城であり続けたのに対し、支城だった名胡桃城は早々と役割を終えています。それ故の魅力。放っとかれた城のなごりがいいですね。<腰曲輪>曲輪(くるわ) は斜面を削って平地を確保してある場所の総称。画像はその中でも腰曲輪とよばれ区画。誘い込んだ敵を高い位置から攻撃する目的で平になっています。<土橋と本丸>この細い道を通らないと本丸に渡れません。馬出しから三の丸・二の丸・本丸が直線で配置された連郭式の山城。本丸の更に奥、山城の先端部にもう一つ曲輪が設けられていました。<名胡桃城址案内所>炎天下での城探索。城跡の周辺には何もないので、この案内所で休憩させてもらい大変助かりました。また、ここ名胡桃城は、整備される前はきっと草だらけで、どれが遺構だかも分からない荒城だったのでしょう。それが今では曲輪・堀・土塁・・・見学コースのように見やすくなっています。城跡の管理に感謝します。現地では、沼田から遠く感じましたが、帰宅して地図で調べ直すと、まぁ5㎞程度しか離れてません。揉め事になり得る近さですね。この小さな山城が原因で、あの壮大なスケールの小田原征伐が開始されました。------------名胡桃城-------------築城者:沼田氏(名胡桃氏)築城年:1492年(明応元年)頃 主な城主:鈴木重則(真田氏家臣)※小田原北条氏が滅亡後、分割されていた沼田領は全て真田氏の領土となり、名胡桃城はこの時に廃城となりました。[群馬県利根郡みなかみ町下津]-----------(最後に補足)-----------■鈴木重則の息子■ 右近忠重名胡桃城を任されながら騙し取られ、己を恥じて自害した鈴木重則。その息子「右近」こと鈴木忠重(ただしげ)は、真田昌幸に引き取られます。昌幸の長男である信幸(のちに信之に改名)に長年仕えて、信之が他界すると、その二日後に殉死しました。親子二代で真田につくしました。 close

名胡桃城のなごり
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投稿日時 2017-06-01 18:00:05

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