福山城 「5」 本丸御殿跡・御風呂屋(湯殿)の詳細

福山城 「5」 本丸御殿跡・御風呂屋(湯殿)
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記事タイトル 福山城 「5」 本丸御殿跡・御風呂屋(湯殿)
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 福山城の訪城記、福山城 「4」の続きです。  その4では本丸側から筋鉄御門と伏見櫓を見学しました。 その5では本丸御殿跡と御風呂屋を見て回ります。  筋鉄御門を抜けた所から見た本丸のようす。 写真は前回の訪城時に撮影。…… more   往時、天守前の広大な敷地には本丸御殿が所狭しと建ち並んでいた。 本丸御殿は他のお城の御殿建築と同じく、 藩主の政務の場がある公的な「表向」と藩主や正室が暮らした「奥向」から構成されていた。 ※こちらのサイト様に本丸御殿の詳細な平面図が載っています。    御殿跡に立つ石碑には「伏見西殿跡」と刻まれているが、往時このような呼称は使われていなかった。 かつての本丸御殿の内、「表居間」と「御風呂屋」という2つの建物は伏見城から移築されたものだが、 近代になって、これらが「伏見城の遺構」であった事を強調するため、 御殿全体を伏見御殿(石碑では西殿)、あるいは表居間を「伏見御殿」と呼ぶようになったと言われる。 表居間を伏見御殿と呼ぶのはまぁ分かる。 でも御殿全体を…はまずいよなぁ。    本丸御殿跡は側溝と柵で区切られ大まかな間取りが再現されている。 側溝は往時の物? 手前の礎石のある場所が御殿の玄関である式台跡。 式台を進んだ先の広いスペースが年中行事などが行われていた広間跡。 イマジン~    幕府の支援を受けて「準天下普請」で築かれた城なので、さぞ立派な御殿だったと思いますが、 本丸御殿が藩の政庁、そして藩主の住居として使われたのは2代藩主「勝俊」の代までで、 3代「勝貞」からは三の丸東側に新たに造営した「御屋形」と呼ばれる御殿が藩政の場になったとのこと。 その後、表向御殿は特別な行事の際に使用されたため廃城となるまで維持されたが、 明治の初めに御風呂屋以外の建物は取り壊され、 空家となった奥向は1730年に撤去される事になり、奥居間・奥台所・長局が江戸藩邸に移されたという。    石碑の左手、写真正面が内玄関跡。 藩士達は先ほどの式台ではなく、ここから出入りしていたらしい。 往時と同じように、ここから御殿跡に入ってみようかと思ったけど柵があるからやめといた。 せっかくの平面復元(状態は良くないが)なんだから自由にうろちょろ出来た方が楽しいんだけどなぁ。 別に立入禁止になっていたわけじゃないんだけどね。 でも柵があったら入りづらいじゃん。  右手奥に見えているのは、昭和20年の空襲によって焼失し同41年に再建された「御風呂屋」ですが、 この建物は往時の姿とは異なる模擬的な物なので注意。 後々触れます。    内玄関の北西側に位置する台所跡。 調理場や土間、物置などで構成されていたという。 台所というと、大河ドラマ「真田丸」で豊臣を裏切り大坂城を炎上させた、あの爺さんがいた所ですね。笑  台所の東側には、役人の部屋や物置に使われていた「料理間」があり、 そのさらに東側には、本丸御殿ほぼ中央に位置する「小書院」が建っていたという。 小書院は藩主が通常の政務にあたる場所で、表向御殿の中心的建物だったとのことだが、 跡地には明治期以降に作られた小さな庭園があり、遺構は全く残されていない。    式台跡に戻り、東へ延びる石畳を進んで広間跡へ。 石畳は後世の物。 公式行事が行われていた広間は160畳ほどの表向御殿最大の広さを持つ建物で、 式台入ってすぐの「虎の間」や、「獅子の間」 「鑓の間」などいつくかの部屋に分かれていたという。 虎の間は来訪者が最初に通される部屋で、襖や壁には威圧するように虎が描かれていたと言われる。  ※各部屋の広さはこちらのサイト様を参考に計算したおおよその畳数なので、 なんとなくのイメージとして受け取ってください。   この「虎の間」というのは福山城に限った事ではなく、 写真の名古屋城や江戸城など各地の御殿で見られた部屋だったそうな。 譜代の水野家の居城ですから立派な障壁画で飾られていたと思われます。    御風呂屋前まで進んで振り返って見たところ。 広間の東側には南北3、6m、20畳敷の渡り廊下があり「大書院」に繋がっていたとのこと。 撮影場所はおそらく大書院の縁側の位置なので、渡り廊下とその先の広間をイマジン。    大書院は藩主が公式の政務にあたる場所で、来訪者との会見もここで行われていたようです。 150畳ほどの広さがあり、広間と同じく「皇帝の間」や「後座敷」等いくつかの部屋で構成される建物で、 中でも皇帝の間は、中国の歴代皇帝を題材とした障壁画で飾られた最も格式高い部屋だったんだとか。 また、大書院南側の御風呂屋とは渡り廊下で繋がれていたという。    その御風呂屋を広間跡南東隅から見たところ。 現在の建物は天守や月見櫓と同時期に木造再建されたものですが、色々と「訳あり」らしいのです。 とりあえず↓の概要が刻まれた石碑をご覧ください。    これまで「御風呂屋」と書いてきましたが、現地の解説や福山市のHPでは「湯殿」と紹介されています。 御風呂屋が正しい呼称なのでタイトルでも「御風呂屋(湯殿)」としているわけですが、 歴史好きの方はご存知のように、「風呂」と「湯殿」は別物です。 「湯殿」は現代のお風呂と同じようにお湯に浸かって汚れを落とす施設ですが、 「風呂」は蒸気で体を蒸し、垢を擦り落として最後にかけ湯をする、今でいうサウナのようなものでした。  「湯殿」は、この「御風呂屋」とは別の場所、表向と奥向にそれぞれ1カ所ずつあったとのこと。 本丸御殿の平面図はこちらから。    御風呂屋は東側の「座敷」部分と、西側の「風呂」部分から構成される施設で、 座敷部分は建物の一部を南側(奥側)の石垣上に張り出して建てた「懸造」になっており、 ひとっ風呂浴びた後に城下の眺めを楽しむ「展望室」として機能していたと思われます。 (↓の写真)    こちらのサイト様によると「御風呂屋」は明治7、8年頃から、なんと料亭として使われる事になり、 座敷部分はそのまま客席として使用されたため内部に大きな改変は無かったが、 風呂部分は調理場等の裏方設備が置かれたため、内外共に大きな改変を受ける事になったという。  現在の「湯殿」という呼称については、 料亭なのに御風呂屋では銭湯と間違われかねないので、湯殿と呼ぶようになったものと思われます。   で、御風呂屋は昭和20年の空襲で焼失、同41年に木造で再建されますが、 明治初期に改変を受けた姿を元に復元し、料亭仕様に改変された所は「往時の姿風」に再建したため、 御風呂屋の「風呂」部分も復元される事はなく、 往時の姿とは異なる現在の「御風呂屋(湯殿)」が誕生した。 と、まぁこういう事らしいのです。 ですから、石碑に記されている「内外ともに復原したもの」は全くの誤りという事になります。    本丸側、座敷部分の扉にはこんな物まで付いている。。 福山市のHPには「伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築」とあるから、 豊臣の桐紋という事なのだと思うが、 昭和初期に撮影された焼失前の姿を見ると、この五七桐はおろか扉自体も確認できない。 てっきり、料亭時代に豊臣期伏見城の遺構であると(嘘の)アピールをするために掲げられ、 それを昭和41年の再建時に踏襲した物だと思ったが、 焼失前の姿に五七桐が確認できないとなると、「往時の姿風」に再現した物の一部という事になる。 ってことは、少なくとも昭和41年まで「御風呂屋」は豊臣期伏見城の遺構だと信じられていたって事? えーそんな事ってあるのー?って感じなんだけど。   まぁ、再建時の文化財に対する考え方を考慮すれば、 この五七桐も含めて、現在の「御風呂屋(湯殿)」の姿は致し方ない面はある。 「史実に基づかない、ふざけた物作りやがってー」とは思わない。 こういったお城の再建物には、戦後の復興の象徴として再建した当時の人達の想いもあるからね。  ただ、現地の解説や市のホームページで、 「復原したもの」それも「内外ともに」と誤った情報を発信し続けているのは全く理解できない。 事情を知らない一般の観光客が説明文を読んでこの建物を見たら、 「復元だけど、あの伏見城にあった建物か」と、 五七桐を見つけた人は、「それも豊臣秀吉の伏見城か」と誤解しかねないと思う。 失敗するのはいいけど、嘘ついたらダメだよ。   その5はここまで。                               ~ブログランキング参加中~                良かったら↓アイコンをクリックして投票お願いします                                                                  アイコンをクリックするだけで投票できます              ※Ctrlキーを押しながらクリックすると別ウィンドウで開きます close

福山城 「5」 本丸御殿跡・御風呂屋(湯殿)
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投稿日時 2017-05-03 01:21:35

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