天下人の夢の舞台「大坂城」の詳細

天下人の夢の舞台「大坂城」
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記事タイトル 天下人の夢の舞台「大坂城」
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JUGEMテーマ:お城   おはようございます。 何とか、北海道から帰ってきたゆうりです。   北海道を一周してきました。 函館までは行ってませんが……。   明日から、有人と島へ行ったら、おとなしくして…… more おきたいと思います。   そんなゆうりがお届けするのは、 日本100名城の65城目、       No.54大坂城です!   登城日は、平成30年3月下旬。 東四国と飛鳥をめぐる旅で訪れました。   言わずと知れた天下の台所大坂の城です。 中学時代に、江戸、京の都、大坂の三都が栄えていたという話があったかと思います。 その商都大坂です。   今回は、一枚目の写真しかありません。 ちょうど、大阪城ホールでライブがあり、すごい人で、ちょうど良い写真が手に入りませんでした。 というか、満足のいく散策はできませんでした。   たくさんの人によって、身動きが厳しいほどの混雑ですから。 展示を見て、スタンプを押したら退散です。 それでもなお、予定よりも時間がかかってしまいました。 原因は、インバウンド客もふくめて改札口が大混雑。18きっぷの有人改札を抜けるだけで時間がかかる始末。 それは、仕方がないこと。 感染症が広まる前の世の中でしたが、あれほどの混雑がないとJR西日本も大変でしょう。 JR西日本には頑張っていただかないといけないのですから。   よって、今回は、大坂城の見どころを紹介するというか、別の側面から見ていけたらと思います。 見どころは、他の公式サイトやガイドブックに細かく紹介されているでしょう。 今回の内容は、主に京阪特急プレミアムカーに乗る旅で訪れた大阪歴史博物館の情報に基づいています。 (一枚目の写真も大阪歴史博物化館からの写真です。だから、うまく撮影できていません。)   題しまして、大坂城の地には何があるのかです! 現在の大坂城は、江戸時代のものを復元しておりますが、 それ以前にも、いくつか重要な構造物が建てられていました。 その歴史を紐解きたいと思います。 なぜ、大坂城はその地にあるのか、見ていけたらと思います。     ー第一章 古代の大坂城ー   古代、この辺りは難波(なにわ)と呼ばれていました。 難しい波と書いて難波。 もともと、魚(な)の庭から名付けられたという説もありますが、諸説あります。   この地から南に行くと、百舌鳥古墳群をはじめとした一大古墳群が密集しているように、 古代からこの地は重要視されていました。   理由の一つが難波津です。津は港という意味なので、大阪港というべきでしょうか。 この港は、日本の玄関口の役割を果たしていました。   もちろん、福岡城跡にある鴻臚館や、秋田城が古代より大陸からの客をもてなしてきていましたが、 難波津は都であった飛鳥、奈良の玄関口として栄えました。 よって、この地は古代より重要視されていました。 そのため、渡来人たちの一部は、この難波の地域に居住したとも伝わっています。     この近辺は、ちょうど大阪平野の台地に相当します。 大坂城一帯のすぐ北には淀川、東には巨大な河内湖、西には大阪湾が広がっていました。 三方向を水に囲まれた台地、上町台地という名前が付けられています。   上町台地には、発掘されているだけで2回宮殿が築かれました。 仁徳天皇も宮殿を築いたという話がありますが、諸説あります。   発掘された場所は、いずれも広義の大坂城内です。 といっても、本丸付近ではなく、少し離れた場所。 現在は、難波宮跡ということで、別の公園となっています。   一度目が、孝徳天皇が白雉3(652)年に建築した難波長柄豊碕宮です。 大化の改新の後のこと。まだ、飛鳥地域が蘇我氏の勢力内ということで落ち着いていなかったのでしょうか。 多様な理由が考えられますが、この地に宮殿をつくりました。   二度目が、聖武天皇が天平16(744)年に遷都した難波京です。 当時は、疫病も流行り、平城京からころころと遷都していたころ。 その一連の流れで、この地に都市が造られました。 この時は、四天王寺(聖徳太子の時代建立)を朱雀大路の西に配置するなど、既存の大寺院と、百済寺なのど新設の寺院を計画邸に配置した都市が造られました。   ※宮は宮殿だけ。京は宮殿と都市がつくられたこと示しています。   この難波京は、平城京に再遷都した後、しばらくは、国際都市として栄えたと考えられています。 国際港難波津、四天王寺、渡来系を含めた数多の寺院、防人たちの終結地としての役割を果たしていました。 大きな転機が訪れたのは、桓武天皇の時代です。   平城京から長岡京に遷都しました。 その際、たくさんの物資が必要となります。 ちょうど、難波京の北を流れていたのは淀川。 ということで、たくさんの建築物資が難波京から長岡京へと運ばれていきました。 しかし、寺院はその地に存在し続け、神社を中心とした都市として繁栄をすることとなります。   古代の大阪は、国際色豊かな大都市でした。     ー第二章 中世の大坂城ー   古代、難波津として栄えたこの地には、淀川河口付近に渡辺津が成立しました。 当時、広大な面積をほこった河内湖は、大和側の肥沃な堆積物によって湿地化しており、その面積を減らします。 また、この地は、浄土信仰の発展により、熊野詣や四天王寺への参拝、それを受け入れる宿場や、舟屋、門前町など広大な都市として栄えていました。 一説によると、15世紀には、四天王寺付近に7000軒を超える門前町を形成していたらしいです。室町時代の人口を考えると、その巨大さがよく分かります。   そんな難波には都市圏が3つ形成されました。 平野、堺、そして大坂(石山)本願寺です。 それぞれ強固な自治組織をもち、特に堺は国際的な貿易港として栄えていました。   今回、お話をしている大坂本願寺は、現在の大坂城の前身です。 上町台地の先端に作られた巨大な寺内町です。 先端に作られたため、難波の宮殿とは中心が少しずれました。 当時の推定人口は1万人を超えていたとされています。 そこに反信長の雑賀衆や毛利家が援軍に加われば、本願寺攻めは苦戦したことでしょう。   中世の大阪は、信仰を中心とした大都市でした。     ー第三章 近世の大坂城ー   大坂本願寺の支配は長くは続きませんでした。 織田信長の攻撃により、ついに本願寺の勢力はこの地から追われてしまいます。   本能寺の変の後、大坂城を今の地位に引き上げたのは、豊臣秀吉です。 言わずと知れた天下人!   彼が、今の大阪の街を創り上げたと言っても過言ではありません。 広大で豪華絢爛な大坂城を築き上げ、その名を世界にとどろかせました。 天下泰平に導き、日本国を再度一つにまとめ上げた実力と功績は計り知れません。   彼の時代に、大阪の都市圏を確立しました。 南は四天王寺付近まで町屋を広げていき、 都市を西側にも拡張するなど日本一の大都市としました。   しかし、天下人の夢のお城は、現在残されていません。 二度にわたる大阪の陣により破壊され、埋められてしまいました。 何度考えても、徳川家の宣戦布告理由はこじつけでしかないと思うのですが、それほどまでに豊臣家を恐れてのことだったのでしょう。しかし、徳川家康もあの時代まで生き残りました。 家康亡き後に、豊臣家の復権も十分考えられたことですから。   歴史にもしもはNGとは思いますが、 鎌倉時代へと続く源平合戦。その石橋山の戦い。 鎌倉時代最大の危機、元寇。 戦国時代の武田信玄の急死。 江戸時代の終わり、鳥羽伏見の戦い。 日露戦争の黄海海戦。 など、数え上げれば枚挙にいとまがないくらいどうなっていたのか分からないポイントを経て現在があります。 不思議なものです。   そんな徳川家康の汚名を後世に残した大坂の陣を経て、 大坂城は、徳川家によって生まれ変わります。 それが、現在残された大坂城です。   実際、掘ってみると、 ー現在(江戸時代より)ー ーがれき(大坂の陣)ー ー豊臣時代の地層ー と分かれているそうです。   豊臣氏の時代よりも高く土を盛り上げて城を築きました。 そのためでしょうか。 石垣の高さは、日本有数の高さを誇っています。   大坂の地は、政治の中心地からは離れてしまいましたが、経済の中心地としては残り続けました。 各藩の蔵屋敷が軒を連ね、 江戸と大坂は菱垣廻船や樽廻船といった廻船問屋がしのぎを削ります。 また、古代から大坂城の東側にあった河内湖とその後の湿地帯は、大和側の流路変更と新田開発によって姿を消してしまいました。   近世の大阪は、巨大な経済都市でした。     いかがでしたか。 長々と文章を書くのも久方ぶりのことで、読みにくいところもあったかと思いますが、 現在の大坂城は、古代から脈々を受け継がれてきた由緒ある地に建築されているのです。 ここに書いていると、四天王寺の方がすごいような気がしますが、大坂城のページですから気にしません。   ☆お城データ☆ 城所在地:大阪府大阪市 交通手段:JR大阪環状線線森ノ宮駅から徒歩すぐ スタンプ:大坂城天守閣   お城巡りランキング     close

天下人の夢の舞台「大坂城」
サイト名 ゆうりの世界
タグ 日本100名城
投稿日時 2022-08-10 04:20:18

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