<多賀城(夏恒例のお城巡り2城目)> 奈良時代の文字を直に目の当たりにして感激!の詳細

<多賀城(夏恒例のお城巡り2城目)> 奈良時代の文字を直に目の当たりにして感激!
シロスキーのお城紀行
ページの情報
記事タイトル <多賀城(夏恒例のお城巡り2城目)> 奈良時代の文字を直に目の当たりにして感激!
概要

すでに「速報」でお届けしていますように、8/2(火)~4(木)の二泊三日で、「夏好例のお城巡り一人旅」に出かけました。 前回の「ブログ」ではスタート城の「岩切城」をお届けしましたが、2城目は「日本100名城」の「多賀城」(宮城県多賀城市)です。「日本100名城」ながらも…… more 、未だ訪れることなくそのままになっていましたので、これで「100名城」は満了です。 「岩切駅」から「JR東北本線」で2駅目「国府多賀城駅」で下車します。駅前には既に「多賀城南門」をあしらった時計台、幟や解説板が並び雰囲気づくりも華やかです。 JR東北本線「国府多賀城駅」 ここで、「多賀城」の歴史や城主について触れてから訪城したいと思います。 「多賀城」は、平城京の律令政府が全国統一の一環として北方の蝦夷を支配する為の軍事拠点としたもので、724年に「大野東人(あずまびと)」が築き、平時は「国府(役所)」として機能しました。 8世紀から11世紀半ばまで置かれ、762年に第2期として「藤原朝獏(あさかり)」が改修を加えました。その後は反乱による焼失や大地震による倒壊や津波による被災がありその都度修築を重ねました。 当初は「陸奥国府」という位置づけでしたが、その後は「出羽国」まで監督下に置き、行政・経済・軍事の中心として機能しました。 江戸時代に土中から「多賀城石碑」が発見され、それは「藤原朝獏(あさかり)」の改修時に建てられた記念碑と考えられています。 縄張りといいますかその範囲(外郭)は、一辺約1km弱の不整方形、周囲は土で押し固めた上に屋根を設けた「築地塀」を設けて、地盤軟弱な所は「材木塀」で取り囲んでいました。 不整方形の「外郭」(現地の絵図から) 「外郭」への出入口は、南・東・西にあり、特に「南門」は格式が高い「二重門」、「東門」と「西門」は「八脚門」であったようです。 重要な政務決済や儀式が行われた「政庁」は、お城のほぼ中央に置かれ、約100m四方の築地で囲まれていて、中央やや北側に「正殿」が、その手前両脇には「東脇殿」「西脇殿」、その他に「後殿」「東楼」「西楼」「翼楼」等が建っていました。 今回「多賀城」を訪城するに当たり、「多賀城跡案内図」で見るべきポイントをチェックして臨みましたが、私としては珍しく最初の地図の読み違いによって、無駄な歩行と暑さの中での行軍をしてしまうミスを犯しました。その結果、両足に「こむら返り」の痙攣で、休憩を何度も余儀なくされて時間ロスとともに見るべきポイントも激減してしましました。 「多賀城跡案内」図(黄色に塗った所は行く予定地でした) 「国府多賀城」駅前に横たわる「館前遺跡」ですが、ここは赴任した「国司の館」で、9世紀前半に建物が6棟建ち、それらの全面には庇付が付く格式高い建物だったとのことですが、この場所は「外郭」から外れた南東に位置します。 「館前遺跡」 ここを見て安心したのか、地図を良く確認せずにその脇にある道をどんどん北上して行ったところ「浮島神社」に来てしまい違う方向に進んでいることが判明。ここから「多賀城碑」がある場所に向かって自動車道を歩みました。 木々が繁る小高い丘が見え、後ろには現在復元中でシートが被っている「南門」が見えてそこであることを確信して辿り着きました。 小高い丘の右側の木々の中に「多賀城跡」碑があり、シートに覆われているのが復元中の「南門」 重文「多賀城跡碑」は屋形に包まれていて、屋形姿はよく写真で見ていましたがリアルに目にできて感激、また中に立つ石碑は奈良時代に刻まれた文字であることを直に見ることが出来て、奈良時代がこんなに身近に感じたことは初めての体験でした。 重文「多賀城跡碑」の屋形重文「多賀城跡碑」の屋形 碑面に刻まれている内容は、「多賀城の位置」「大野東人(あずまひと)による724年の創建」、「藤原朝獏(ふじわらのあさかり)による762年の改修」についてだそうで、「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれています。  重文「多賀城碑」(奈良時代に刻まれた文字が生で直視できます)重文「多賀城碑」(奈良時代に刻まれた文字が生で直視できます) 暫く横のベンチでその感動に浸りながら、休憩も兼ねました。真横には「南門」工事が進んでいるようで復元後に訪城できれば良かったですが、またのお楽しみにしておきましょう。因みに2022年度中に完了し、2024年に一般公開する予定とのことです。 「南門」跡に復元中の「南門」 その木々が繁った小高い丘から見下ろせて東側に延びる土塁のようなモノ、その突当りにある小山が「政庁」だと全く勘違いをしていたので、そこから写真を何枚も撮りましたが、そこは政庁跡ではないことを下へ降りてから知ることになりました。まだこの時点でも、東西南北方向音痴になっていたようです。 「南門」跡の小高い丘から東側を見下ろすと真中に「土塁」のようなモノが走ります その土塁状のものが、「外郭南辺の築地(ついじ)」跡であることが、そこに立っていた解説板によって判明しました。更にはその中央辺りに突き出た三本の柱が建つ場所が、「築地塀」に取りつく「櫓の土壇」だったのです。これらは、発掘調査で判明したそうです。 「外郭南辺の築地(ついじ)」跡に取りつく「櫓の土壇」「外郭南辺の築地(ついじ)塀」跡発掘時の「外郭南辺の築地(ついじ)塀」と「櫓の土壇」の各跡(現地の説明板写真より)「外郭南辺の築地(ついじ)塀」と「櫓」の推定復元図(現地の説明板写真より) その南側の堀状の池は、当時この辺りは湿地帯であったのでそれを表現しているらしいです。 当時の湿地帯を再現、湿地帯向こうには「築地塀」跡 そこで、両足に異変が発生、両太腿の内側の筋がカチカチになり激痛、歩けないので近くの屋根付き休憩所まで足を引きずり腰を下ろすもその激痛は治まらず、揉みほぐしてもあまり効果が無く暫くうずくまり状態でした。熱中症なのか、水分補給と岩塩タブレットをねむりながら暫く耐えていました。 15分程休憩を取り治まった所で、もう一度案内図を良く見ると「政庁」跡はそこから北西方向にあることが理解でき、そちらに向けて行軍再開しました。 もう一度あの「多賀城碑跡」屋形の脇を通り抜けて自動車道を越えた所に、「政庁」に通じる「南北大路(おおじ)」が見えるではないですか! 「政庁」に通じる復元「南北大路(おおじ)」「政庁南北大路」の石垣を再現(発掘した石垣はこの下に埋められて保存)「南北大路」にある再現「排水用石桝」 幅23mもあるという「南北大路」の茶色の復元道は、途中から石段でグッと上へ向けて登って行くように見えます。その上が「政庁」跡なんでしょう。 はるか先に見える「石段」と登り切った所にあるだろう「政庁」跡 当時、この幅広の大路の先に建つ「政庁」はまるで空に浮かぶ船のように見えたのではないでしょうか。 途中で何度も足を引き攣りながらも、この長い「大路」を進みますと、右手には「城前地区」と言われるエリアがあり現在建造物を復元中でした。 「城前地区」内で建造物を復元中 「石段」を上るにつれて、前には徐々に見えてくる「政庁」跡、後ろを振り向くと真直ぐ延びる「南北大路」先には復元中の「南門」、何と豪華な場所だろうと思いました。 最後の「石段」を上がれば「政庁」跡「南北大路」先には復元中の「南門」 「石段」を登り切ると解説板と第二期の8世紀後半時を想定した「政庁」の推定模型が展示されています。目の前に拡がる礎石の各建物名やその当時の姿を思い浮かべながら臨めました。 第二期「政庁」の推定模型 一番南には「政庁」の「南門」が横たわり、その「礎石」エリアの両脇の土塁のような所には「翼楼」が建ちその延長は「築地塀」が取り囲んでいたようです。 「南門」跡エリア表示と「礎石」「南門」の推定図(現地に掲出)「南門」跡両袖には「翼楼」跡 「南門」エリアの北側には石壇となっている「正殿」跡とその「礎石」を見ることが出来ますが、その間は、ゴツゴツした石畳になっています。 「正殿」跡の石壇(ほぼ正面から)「正殿」跡前の「石畳」 「正殿」の「礎石」はやはり大きいものですが、エリアはそんなに大きなモノではないという印象です。ただ、推定復元図を見る限りでは非常に立派な建造物であったようです。 「正殿」跡の石壇と礎石(西側から)「正殿」の推定図(現地に掲出)「北殿」跡のエリアと礎石、奥には「正殿」跡「正殿」の手前の東西には「脇殿」が置かれ、その後ろには東西「楼」が建っていたようです。そして「正殿」の後ろには「後殿」のエリアと礎石が見られました。 「東脇殿」跡のエリアと礎石「東楼」跡のエリアと礎石「東殿」跡のエリアと礎石(「築地塀」には装飾的に付随する建物)「東殿」の推定図(現地に掲出)「政庁」跡周囲の「築地塀」跡 これらを見た後、再度両足に激痛が走り歩行不能となりベンチに腰掛け痛みが治まるのを待ちました。当初の予定では、「大畑地区」の奈良時代の大型建物跡や、「外郭東門」跡、「外郭西門」跡へ行くところでしたが、地図を見るとかなり歩かないと行けないことが解り、そこで断念をしました。 しかし、「政庁」跡から「国府多賀城駅」まで、普段であればどういうこともない道程ですが、その日に限って凄く遠く感じる距離でした。 足を引きずり這う這うの体(ほうほうのてい)で駅まで辿り着き、全てを見ることが出来ない無念さと共に、次の訪城先へ移動しました。 当初計画では「白石城」に立ち寄る予定でしたが、事前調査で「天守」が9月まで改修工事中で覆いが被さっていることから写真も撮れないことがわかりパスすることにしていましたので、宿泊地「福島」にある「福島城」へ直行しました。 次回ブログでは、「福島城」をお届けします。  「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。にほんブログ村 「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。 もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。お城巡りランキング   close

<多賀城(夏恒例のお城巡り2城目)> 奈良時代の文字を直に目の当たりにして感激!
サイト名 シロスキーのお城紀行
タグ
投稿日時 2022-08-09 01:20:05

「<多賀城(夏恒例のお城巡り2城目)> 奈良時代の文字を直に目の当たりにして感激!」関連ページ一覧

新着記事一覧

<打込み接・布積み(関八州)> 江戸城、小田原城、佐貫城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹...
シロスキーのお城紀行
2022-09-26 01:00:04

中城城 日本100名城 沖縄 路線バスで行く世界遺産5城 5-4


hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
 ◆中城城 三の郭の石積 またかなり間が空いてしまいました。引き続き3月中旬に久々に沖縄、世界遺産5城を2泊3日で路線バスを利用して...
hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
2022-09-25 14:40:05

<打込接・布積み(奥羽・出羽)> 弘前城、盛岡城、仙台城、会津若松城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を日本の北から南まで展開しているお城の写真をお届けしてきましたが、昨日で一応終了...
シロスキーのお城紀行
2022-09-25 02:00:03

讃岐小豆島 星ケ城  西峰と東峰から成る素晴らしい眺望の山城


久太郎の戦国城めぐり
讃岐小豆島 星ケ城 (香川県小豆郡小豆島町安田・星ケ城山) <県指定史跡> <ちょっと小豆島まで行ってきます・②>坂手港から安田館を訪問した後...
久太郎の戦国城めぐり
小豆島の城めぐり
2022-09-25 01:40:03

第439回:江馬氏下館(北飛騨における江馬氏の繁栄を示す城館跡)


こにるのお城訪問記
訪問日:2021年11月江馬氏下館(えまししもやかた)は岐阜県飛騨市にあった城館です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。北飛騨の雄...
こにるのお城訪問記
岐阜県の城郭
2022-09-25 01:20:03
;