尾張 品野城  東海環状線の開発からギリ逃れた貴重な山城の詳細

尾張 品野城  東海環状線の開発からギリ逃れた貴重な山城
久太郎の戦国城めぐり
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記事タイトル 尾張 品野城  東海環状線の開発からギリ逃れた貴重な山城
概要

尾張 品野城 (愛知県瀬戸市上品野町・秋葉山)新春を迎えまして、新しい一年が始りました。皆様におかれましては充実したよき年になることを心からお祈り申し上げます。自分も今まで通りマイペースを大切にした行動的な年にしたいと思っております。さて、毎年恒例、初詣での開運おみくじは・・、「…… more !!」。ついに、ついに、3年連続「末吉」から「大吉」というありがたいお告げを頂きました。家族から憐みのような視線を受けない素晴らしい幕開けとなりました!よぉぉ~~しゃぁ!いいことあるぞぉ~!帰宅後、早速クリアカードスリーブに入れて丁寧に扱いお財布にしのばせます。おみくじは、神様からのお手紙のようなもの。大切に。謙虚に。ありがたく。折りに触れておみくじを読み直すと、戒めにもなってとても良いようです。『旅行』=「城めぐり遠征」だな・・、「益あり、行きて吉」。ウふふ♪、いいじゃない。『学問』=さしずめ「城郭研究」かな・・、「安心して勉学せよ」。頑張ります、ブログもね。『病気』=「城のめり込み病」ってところかな・・、「信心せよ、治る」。・・治る?・・いや、治らないと思います!という感じでニヤニヤしていたら家族に置いてきぼりされてしまった久太郎でした。さて、開発工事に置いてきぼりにされてよかったであろう城、という例もあります。今回訪れたのは愛知県瀬戸市の品野城です。東方面の国道坂より秋葉山・品野城を眺めます。山の中腹に東海環状道が通っています(標識を意識的に入れてみました)。当初の計画では城跡の一部が取り壊される予定でしたが免れてほぼ完存しています。しかし、環状道建設により山頂までの参道がなくなってしまいました。品野城下には信州飯田から名古屋までの中馬街道が通っていました。品野城の麓の登り口には稲荷神社社が造営されています。以前はここから山上の稲荷社のある品野城址まで登ることができました。現在は東海環状自動車道で唯一の尾根参道が分断されてしまいこのルートは使えません。そのため地元の方々も稲荷社までお参りに行くことはなくなりました。・・しかし、山頂までいく方法はあります。稲荷神社の東から谷へ入る林道を利用します。このルートから東海環状自動車道の高架下を通過することが条件。そこから(適当な所から)沢を渡って山頂まで直登する、という方法です。山はかなりの急斜面ですので注意が必要ですし、降りるときもまた同様です。かつての登山ルート尾根まで出てしまえば占めたもの、あとは登るだけです。山頂の品野城主郭部の曲輪に到着します。以前来た時(平成15年)はまだ稲荷社はご健在でしたが、倒壊してしまっていました。人の世話が入らないとこうもあっけなく朽ちていくものなのか・・。開発による便利・恩恵と引き換えに失っていく拠り所・風習もあるのですね。主郭部は東西に長い曲輪です。麓の稲荷社から延びる北からのルート向きに虎口があります。その周囲には土塁の形見とみられる遺構が確認できます。主郭部から西へ降りると二の丸に相当する広い曲輪が押さえています。削平具合や周囲の切岸などからして常住施設があったことを想像させる空間です。本来の大手口はこちらを経由する西口であったかもしれません。城下の様子や瀬戸市街地もここからはよく俯瞰することができそうです。南曲輪との間の大きな堀切には目を奪われる。(;゜0゜)深さは約4メートル、堀幅も約10メートルという大きな堀切です。堀底は箱堀状にくり抜かれておりスペースを確保しています。北尾張の開発エリアでここまで完存している山城遺構は稀少中の稀少。稲荷神社のご加護でしょうか、その幸い、よくぞ開発から逃れ得たものです。南曲輪は少々削平が荒いですが、土塁を備えた備え曲輪となっています。この土塁は大きく伸びていますが多分に自然地形によった面も見られます。土塁の南にも自然地形を利用した空堀が見られます。空堀の底から見上げると登攀を遮断するかのような壁の如き塁線となっています。自然地形を取り込んで大きな土塁や空堀として仕立てた形跡も見られました。南へ続く細尾根脇には畝竪堀状の溝が幾つかみられます。一見すると畝竪堀のようですが、地表の土が流出してできた溝とも思えます。一帯の山肌は風化に弱いサバ土の土質が見られます。尾張瀬戸から東美濃にかけてはこういった特徴も考慮にいれる必要があります。人一人がやっと通れるような馬の背道状に続く瘦せ尾根。しかしこうした細尾根も背後への備えとして利用したことでしょう。意識的にこの部分一帯は尾根の両脇が削り落とされているように感じます。品野城ではこうした自然地形を上手く利用し加工を施しているように思えます。品野城からの尾張中心部方向の視界もよくききます。さてこの品野城ですが、歴史は古くから始まります。建保年間(1213~1219)、山田重忠の家臣・大金重高が秋葉山に城を築いたといいます。延文3年(1358)には宗良親王の臣・戸田頼房、宗忠父子が信濃・大河原城から移住します。・・信濃(しなの)から品野(しなの)・・ですか?その後戸田氏は応永年間に尾張・戸田城へ移り、品野城は廃城となります。その後、織田信秀の臣・坂井秀忠の居城とります。享禄2年(1529)松平清康の大軍に攻められ、秀忠は城中で切腹、落城しました。品野城は清康家臣の松平信定の居城となり、家重、家次へと継がれます。永禄元年(1558)織田信長の家臣・竹村長方が品野城を包囲攻撃するも家次の逆襲に遭います。しかし永禄3年(1560)再度信長は総攻撃をかけ、品野三城(品野、桑下、落合)は落城。信長は北尾張の今川勢力を駆逐することに成功した上で桶狭間へ臨むことになります。品野城にまで今川氏の手が伸びており東尾張はかなり脅かされていたことを物語っています。歴史上では桶狭間ばかりに目を向けがちですが、この前哨戦を制した信長の行動には注目。またこれにより織田・今川両勢力の戦線はかなり広いものになっていたと思われます。今川勢力が品野、末森・守山、鳴海等の多方面から尾張を揺さぶっていたことも理解できます。東美濃への道も開けるこの品野城、争奪戦が繰り広げられたのもの深く頷けましょう。今回の現地までの足取りですが、あくまでも我流での直登例、ということです。東海環状自動車道へは足を踏み入れることはできませんので迂回して登ってみました。付近には駐車場がありませんので近くの祥雲寺さんに駐車場をお借りいたしました。 close

尾張 品野城  東海環状線の開発からギリ逃れた貴重な山城
サイト名 久太郎の戦国城めぐり
タグ 瀬戸市の城めぐり
投稿日時 2022-01-13 00:40:17

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