河後森城 (愛媛県松野町)の詳細

河後森城 (愛媛県松野町)
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記事タイトル 河後森城 (愛媛県松野町)
概要

河後森城 【築城年】不明 【築城者】不明【遺構】郭・土塁・堀切・竪堀・石垣 【形態】山城 【別称】川後森城 【歴史】 「河後森」と書いて「かごもり」と読む、なんとも難読な城です。 築城年・築城者共に不明ですが、少なくとも戦国時代には存在していました。&nbsp…… more ; この河後森城を語る上で欠かせないのはその立地でしょう。河後森城は、伊予国(愛媛県)と土佐国(高知県)の国境近くに位置しており、戦国時代には伊予の西園寺氏と土佐の一条氏、長曾我部氏との間で度重なる合戦が繰り広げられていました。 永禄年間(1558~1570)には、西園寺氏の武将の1人、河原渕(渡辺)教忠が城主でしたが、この教忠は土佐国中村(高知県四万十市)の一条氏から養子に迎えられた人物であり、国境地帯の複雑な事情がうかがえます。  一条氏が没落した後、土佐国では長曾我部元親が台頭して伊予国に侵攻してきますが、河原渕氏は長曾我部氏に通じた家臣の芝氏によって追放されたと伝わっています。  天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征討により、伊予国は小早川隆景の領地となり、河後森城も小早川氏の支配下に入ります。その後、南予を治める大名は戸田勝隆(1587~1594)、藤堂高虎(1595~1608)、冨田信高(1608~1613)と短期間で交代しますが、この間も河後森城は大洲城や宇和島城の支城として位置付けられていました。城には各大名家の家臣が城代として派遣されており、予土国境を抑えるための要衝として引き続き重視されています。  過去の発掘調査では、石垣の基底部や大量の瓦が発見されており、城はこれらの大名達によって改修が施され、部分的な織豊系城郭化が図られていた事がうかがえます。なお、藤堂氏の時代に河後森城の天守を宇和島城の月見櫓として移築したという伝承があり、これが真実であるならば、少なくとも17世紀初頭には河後森城に天守が存在していたといえるでしょう。  慶長19年(1614)、伊達秀宗が10万石を与えられて宇和島城主になると、河後森城には家老の桑折氏が7000石を与えられて入城します。翌年、江戸幕府によって一国一城令が発令されると河後森城の廃城になったとされていますが、その後もしばらく桑折氏は河後森に居住しているため、正確な廃城時期はよくわかっていません。 【構造】 河後森城は、清流四万十川の支流である広見川、堀切川、鰯川の3つの川に挟まれた、標高172mの独立丘陵上に築かれた山城です。 山の中央部には、入り組んだ大きな谷(風呂ヶ谷)があるため、この谷に沿って本郭を始めとする大小様々な郭がU字型(馬蹄形)に展開するという構造になっています。 城の中心部は、最高所の本郭に当たると考えられており、実際に発掘調査では城主の居所と見られる建物や門、石垣が見つかっています。その他の郭でも建物の跡は見つかっていますが、特に西第十曲輪では出土遺構を利用して掘立柱建物や門が復元整備されているのも河後森城の特徴の1つです。 多くの郭には堀切と切岸が確認出来ますが、本郭のさらに東の東第四曲輪と古城第二曲輪との間を隔てる堀切は城内最大級の規模であり、他の郭へ向かう通路も兼用していました。その先の古城では板塀を用いた石打棚や番小屋の跡も発掘調査で見つかっており、眼下に望む広見川流域の監視拠点として使用されていたと考えられます。 【感想】 長期間にわたって行われた発掘調査の成果を丁寧に生かして整備された中世城郭です。中世の山城の姿とはどんなものかイメージしやすい城といえるでしょう。 城への登り口へは複数ありますが、JR松丸駅から見て河後森城の反対側(南)にある風呂ヶ谷駐車場から登る事をおススメします。ここから登ると風呂ヶ谷の井戸、整備された西第十曲輪、西第九曲輪~第二曲輪、本郭、東第二曲輪~第四曲輪、古城の順に主要な遺構を一通り見る事が出来るからです。 また、本郭からは三間・吉田方面を、古城からは広見川を一望出来、予土国境を抑える城として重要な城という事がよく理解できます。 【住所】愛媛県松野町松丸・富岡 【交通アクセス】JR予土線松丸駅下車。風呂ヶ谷の登城口まで徒歩20分。そこから本郭まで徒歩30分。 ↑風呂ヶ谷登城口河後森城の南側にある登城口です。車で来た場合は駐車場があるのでここが起点になります。JR予土線松丸駅からはここまで徒歩で20分程で到着します。私はここから出発しました。 ↑井戸登城を開始してからしばらく進んだ先に現れる井戸。湧き水ではなく、谷に流れ込んだ雨水をせき止めるタイプの井戸です。 ↑西第十曲輪の虎口と復元門井戸を過ぎてさらに山道を進むと西第十曲輪に到着します。発掘調査では虎口と門の跡が見つかっており、その成果をもとに復元整備されています。 ↑西第十曲輪の土塁西第十曲輪は写真のように土塁で囲まれていました。現在では基礎部分しか残されていないため、本来より低い形になっています。 ↑西第十曲輪で復元整備された掘立柱建物発掘調査で見つかった遺構をもとに復元整備されています。 ↑岩盤を削った堀切西第十曲輪をさらに先に進むと、西第三曲輪(左)と西第二曲輪(右)との間に設けられた堀切を目にする事ができます。かなり幅が狭く感じられますが、これは整備に伴って遺構保護のため盛土によるものです。 ↑本郭下の石垣基底部しか残っていませんが、石がある程度整形されている事や積み方から、織豊系城郭の面影が感じられます。 ↑西南側から見た本郭 ↑北東側から見た本郭発掘調査により、城内の主要な建物と思われる主殿舎や台所が見つかっています。現在では、その建物群を平面表示で表現しています。 ↑本郭から北側(三間・吉田方面)を望む中央を流れる川は広見川。眺めは抜群です。 ↑東第四曲輪(手前)から古城第二曲輪(中央)、古城(奥)を望む本郭から東に向かって伸びる郭群です。中央に見える屋根は、復元整備された門です。 ↑堀切と復元整備された門東第四曲輪(左)と古城第二曲輪(右)は、写真のような堀切で遮断されています。ここが城内最大の堀切ですが、この堀切は通路も兼用しており、現在では城外へ出るための門が復元整備されています。 ↑古城の石打棚跡古城では、板塀を利用した石打棚という施設も設けられていました。発掘調査で見つかった遺構を平面表示で表現しています。 ↑新城古城の南側に位置する郭。古城からかなり離れているため、独立性の高い郭です。 【訪城年月】平成28年4月 close

河後森城 (愛媛県松野町)
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投稿日時 2021-03-01 00:40:13

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