高槻城 2 高山右近と高槻カトリック教会の詳細

高槻城 2 高山右近と高槻カトリック教会
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記事タイトル 高槻城 2 高山右近と高槻カトリック教会
概要

昨日の続きです。高山右近は城内にキリスト教会を造り、布教に熱心であったために、1万8千人もがキリスト教に入信しています。現在も元城内にカトリック教会があります。 高槻カトリック教会です。聖堂は高山右近記念聖堂です。 手前の石碑は高山右近との歴史を記したものです…… more 。この石碑裏面はキリストの処刑像のようなものが見えます。(影のでき方でそう見えるだけです) 正面から見た石碑の表面です。 正面から見た高山右近記念聖堂です。 1954年現在地に仮聖堂が建てられて、カトリック高槻教会が創立されました。そして、高山右近記念聖堂が1961年に着工され、翌1962年3月に完成し、4月に献堂式が挙行されました。高いドーム状の屋根が印象的な建物は、キリシタン大名だったユスト高山右近がその生涯を終えた地、マニラ市郊外のアンティポロに聖母実在する、聖母大聖堂に模して設計されました。高山右近の名が冠せられた当聖堂は、右近が列聖されていないため、右近が崇敬した聖母マリアと、日本26聖人に奉献されています。   教会内にある高山右近像です。 高山右近は1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守高山友照(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃城主和田氏を追放して高槻城に入り、1573年父の飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」そうです。(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に、4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎えて、盛大に復活祭が行なわれました。同年、高槻の領民2万5千人のうち1万8千人(72%)がキリシタンでした。ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅しました。右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた、紙の衣一枚で信長のところへ向かいます。(伊達政宗が秀吉に拝謁に行く姿と似ています)結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、織田信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放されました。その後は荒木村重が伊丹城を捨てて息子と逃亡したので、信長は捕らえた妻子や重臣の妻子を、大八車に縛り付けて、京都市中引き回しの上で処刑しました。 赤丸の所にあります。(現在の地図)真上から見ると聖堂は十字架の形をしています。下図三の丸の高槻教会と書かれたところにあります。 江戸時代の堀を合成した図です。現在堀はすべて埋められています。高山右近の時代には下図にあるように、外堀の内側に町屋があったので、当時も三の丸に教会堂があったのでしょう。 上が北の右近時代の縄張図です。 1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失します、右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂城築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力します。信長の死後も秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続し、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高(官兵衛)など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めます。1585年に右近は明石6万石に転封し、明石教会を建設しました。1587年には秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ったが、右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようとも、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。彼は淡路島・小豆島などを経て、1588年に加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭しました。秀吉も見て見ぬふりをしています。1612年に徳川幕府はキリシタン禁教令を発布します。1614年には右近の国外追放令が出されます。右近一家は2月15日雪の中を徒歩で京都に向い、坂本を経て大坂から船で長崎に着きます。長崎から小さな船でマニラへ向かい、43日後に到着しルソン総督を始め全マニラは、偉大な信仰の勇者を大歓迎しました。しかし、苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、到着後40日ほどで熱病にかかります。1615年2月3日に63歳の生涯を閉じました。マニラ市により葬儀が行われてのち、イエズス会聖堂に葬られました。現在、マニラ日比友好公園には、高槻城跡公園と同じ高山右近像が立っています。 下図⑤にある高山右近像です。高槻城跡公園にある高山右近像です。   これはマニラにある高山右近像です。 今回はここまでで、明日縫続きます。 読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。希望があれば、読者相互登録します。毎日午後8時半頃に更新しています。「相手わかるように」に設定して読者登録してください。読者のブログ村・ブログランキングは出来るだけ押しに行きます。 Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。 お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ                                                                                                                                                                                                                                                               お願いします。  close

高槻城 2 高山右近と高槻カトリック教会
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投稿日時 2020-08-02 01:40:03

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