第103景 〜松前城の詳細

第103景 〜松前城
カメも歩けば城に当たる… 城跡酔夢譚
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記事タイトル 第103景 〜松前城
概要

北海道の松前と云えば、一般的には「あ、あの松前漬け」が有名といったところか。ちょっと歴史やお城に興味があれば、「松前城」とか「函館戦争」などのキーワードが出てくるのだが……。ではでは、その北海道松前町での城歩きを。松前城(復元天守と本丸御門)北海道松前町字松前144→Map&nb…… more sp;平山城  日本百名城No.3別名 :福山城  築城年 :安政元年(1855年)  築城主 :松前崇広  廃城年 :明治7年(1874年)                                                                                     (撮影日:2017年9月)前置きを少々。城主の松前家は元を蠣崎(かきざき)家といって津軽安東家の家臣であった。享徳3年(1454年)主家の安東家が南部家に追われ蝦夷地へ渡った際に安東政季(まさすえ)に従った一族である。政季は配下の武将を渡島半島沿岸に十二の館を築いて配置した(道南十二舘という)。蠣崎家は花沢館を本拠に勢力を伸ばし、移住後五代目の蠣崎慶広(よしひろ)のとき豊臣秀吉に謁見し、蝦夷島支配者として大名に準じる待遇となった。後の徳川政権下でもこの地位を認められ、慶広が徳川配下となった機に姓を松前と改め「蝦夷島主」の名を得たという。*(蠣崎氏家系については諸説あって、伝承も多く含むということである)松前家は城持大名ではなく、蝦夷福山藩無石大名格という扱いだったので、松前慶広が慶長5年(1600年)から福山台地に築いた居館は福山館と呼ばれた、いわゆる陣屋であった。ただ、幕府は江戸時代の後期まで蝦夷地に対して特段の関心を持たなかったため、松前家はアイヌとの独占交易や漁業権益などで巨利を得ていたのである。当時、最果ての地とも思われていた蝦夷の松前だったが、北前船が寄港し思いがけず交易の盛んな商業都市として開け、にぎわう様子は時代小説などにも描かれている。*本来の城名は福山城であるが、備後福山城との混同を避け当初から松前城とも呼ばれた。本丸御門(重要文化財) と 天守その福山館が正式に福山城となるのは、幕末という時代になってからである。この頃、蝦夷地にはロシア船が来航するようになり、幕府は北辺警備を厳重にする必要から、嘉永2年(1849年)、藩主の松前崇広(たかひろ)に築城を命じた。築城の縄張り(設計)には高崎藩の兵学者で、長沼流の市川一学が当たった。一学は当初函館での築城案を勧めたが、松前藩側の要望もあり、本拠松前の福山館を拡張することとなった。翌嘉永3年(1850年)より改修が始まり安政元年(1855年)秋に完成した。松前城は長崎五島の石田城(福江城)とならぶ日本最後期の日本式城郭である。現在の松前城跡を歩いてみる。天守台と本丸御門東塀松前の象徴とも言える三重三階の天守の方は昭和36年(1961年)にRC造りで外観復元されたものだ。元の天守は維新後も現存し、昭和16年(1941年)には国宝指定を受けていたが昭和24年(1949年)に失火により焼失したのである。復元された天守もいまや60年の耐用年数を過ぎ、また耐震基準の観点から木造による再建計画が立ち上がっている。(完成予定が2035年とは大分先の話ではあるが……)石垣に残る銃弾の跡 天守内部(松前資料館)アイヌの武将についての展示が多いのも松前ならでは。本丸御門(重要文化財)延焼を逃れた本丸御門は今日まで残り重要文化財である。緑色がかった切り込み接ぎの積み石が往時を忍ばせる。城内の石垣に使われている石材は、地元で採れる緑色凝灰岩と兵庫の本御影石(花崗岩)が使われている。三の丸土塁上から津軽海峡と城下町を望む城は東の大松前川と西の小松前川が形成した河岸段丘城に築かれている。高台上の本丸から海岸方向へ向けて、二の丸と三の丸が雛壇状に並ぶ。三の丸には砲台が7基、海岸にも16の砲台が海へ向けて設置された。城下町は海岸に沿って東西に町家が配置され、侍屋敷と町屋敷が混在する、商業中心の街づくりになっていた。城の背後はさらに高台となっていて寺社を集めた寺社町であった。五番台場跡(復元)と土塁搦手ニノ門(復元)幕末の古写真を解析し棟や冠木の高さを割り出して再建された。堀廻り水路跡今は埋められているが、江戸時代には堀が巡らされていた。その水路に沿って木道が設置されている。本丸表御殿玄関天守、本丸御門とともに残った表御殿は、松城小学校の校舎として使われていたが、1900年新校舎建設時に取り壊された。しかし、玄関のみが新校舎に設置された。さらに1982年新校舎建設に伴い、玄関は曳家で松前本丸跡へ戻され保存されている。馬 坂(松前藩士の登城)    城内へ通じる五つの坂のひとつさて、幕末の松前城についてだが、松前藩は戊辰戦争当初は奥羽列藩同盟に参加していたが、藩内の勤王派が藩政を掌握し、新政府側へ寝返った。そのため箱館戦争では榎本武揚率いる旧幕府軍に攻められることとなる。明治元年(1868年)土方歳三が指揮する旧幕府軍700名に、松前城の弱点である城の背後を突かれ落城した。しかし、翌年新政府軍が奪回する。というような話となれば、この本を読んだ方が 分かりやすいだろう。新撰組に関する代表作筆頭ともいえる本なので、箱館戦争はほぼ巻末に近いところになるが、お勧めだ。「燃えよ剣」〜司馬遼太郎さらにもう一冊。「菜の花の沖」 〜司馬遼太郎 全6巻の第3巻北洋漁業を開拓し、函館の開発に尽力した高田屋嘉兵衛の生涯中盤に差し掛かかり、蝦夷地へ進出していく過程で松前の地を踏む嘉兵衛。先に記した、当時の松前の繁栄が描かれている。お勧め!榎本軍による攻撃で落城した際、城主松前徳広と一族は海路で青森の弘前藩に落ち延びた。蝦夷地における松前氏の終焉であった。さて、今回念願の松前の地に至り、蝦夷ヶ島や松前城の来し方、幕末の箱館戦争などを想いながら半日を過ごした。函館市内からレンタカーを使っての登城だったので、昼ビール!とはいかなかったが、心地よい真昼の夢を見ているようで幸せであった。ではでは。  close

第103景 〜松前城
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タグ 北海道・東北の城
投稿日時 2020-06-12 21:20:02

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