美濃 徳山城  今もなお湖底の集落を見守るかのようの詳細

美濃 徳山城  今もなお湖底の集落を見守るかのよう
久太郎の戦国城めぐり
ページの情報
記事タイトル 美濃 徳山城  今もなお湖底の集落を見守るかのよう
概要

美濃 徳山城 (岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山本郷)人為的行為で孤児となってしまった城、というはあるものです。別に破壊を受けたわけではなく、人里から隔離され自然忘れ去られていく城を指します。ダム建設によって容易に近づけなくなった城もまた然り。近年では限界集落を飛び越え消滅集落などという…… more 様々な問題があります。その逆に再調査によって新たに発見される城というのもままあります。今回はダム建設に伴って水没は間一髪免れた孤城、徳山城を取り上げます。対岸の徳山会館から望む徳山城址。本来なら集落から見上げる形の山容がオープニングを飾る久太郎のブログです。しかしその集落は今はありません。ダム湖の底に沈んでいるからです。ダムによってできた人造湖、徳山湖越しに位置確認するより他なし。本郷カンタク隧道トンネルを出たらすぐに左折します。その先に本郷望郷広場があります。車はここに駐車できます。この場所は旧徳山村民が故郷を偲ぶ意味で造られた広場です。ここからは周辺の山並みや湖の美しさが望めます。そして徳山の歴史が詰まったような神聖な場所のようにも感じます。 左が「集落略史年表」、右が「本郷集落略史」となる石碑板です。徳山ダム建設に伴って466戸・522世帯(約1,500名)が移転を余儀なくされました。(徳山城の位置は左上。加筆させていただきました。)ダム建設はすなわち、村の消滅という事態につながりました。 「全村水没」は故郷の消滅。先住の方々のお気持ちいかばかりだったしょう。人々は沈みゆく徳山村を偲んで最後の別れを告げたのです。ここから等高線に沿って城址まで遊歩道があります。側面には水没を免れた徳山城主郭部が浮き上がります。左端には堀切の窪みがはっきり見えます。先端部にはしらびや杉があり迎えてくます。古来より住民に親しまれ大切にされてきたしらびや杉は徳山村民の願いそのもの。徳山村の姿を見守ってきた生き証人です。階段を登ればすぐ上段に本丸があります。本丸は約50m×約15mの長方形曲輪。曲輪の奥に高くなった櫓台と土塁を設けたシンプルな縄張りです。しらびや杉のあった辺りには前衛曲輪があったようです。徳山城の城址石碑土台部は苔に覆われ雰囲気あります。ふと後ろには湖水水位がそこまできているのがわかります。こうして主郭部が水没を免れ「ほぼ完存している」ということに大きな救いを感じます。渇水期になると現れる、という訳でもありません。満水期でもその姿はギリギリ浸水しない奇跡的な事例です。本丸奥部の高台は櫓台かと思われます。尾根を分断するひときわ深く大きな薬研堀切です。この堀切は幅こそ9メートル程ですが北斜面側は深さ約10メートルあります。豪快で見事なV字を描いたラインには魅了されるものがあります。ここでは溜息をついてただ見とれ味わっている時間がありました。けどそんな時間も次の瞬間に困惑・・。その先に登れないのです・・。傾斜が高すぎて・・(写真では右側の尾根筋へのルート)。写真中央、黒い部分が堀切のある部分です。なんとか登って振り返ってみます。ご覧の通り尾根がざっくり切り抜かれています。道理で登れないわけです・・。そして尾根道は・・。幅1~2メートル弱の細い馬の背道。両脇は湖・・。足を踏み外したら足下の湖面に向かって転げ落ちてしまう・・。唯一の弱点背後の尾根筋は一人しか渡り歩けないように施されているのです。ここではまるで綱渡りをしているような気分。慎重に歩きます。そして二条目の「念のため堀切」もきちんと用意されています。湖の表現はムズカシイ・・、いい方法はないものか(・_・;)単純で基本的な縄張りながらキチンと押さえるべき所は押えます。その一つ一つの遺構が顕著に残っている所が見所だといえそうです。尾根筋まで来たら戻るのも大変なんです(^_^;) 。徳山氏の祖は坂上田村麻呂の子孫の貞守で貞観年間に美濃権守に補せられました。そして徳山郷を拝領し徳山氏を名乗ったのが始まりとされます。南北朝期の徳山貞信は延元二年(1337)に徳山城を築き南朝方として呼応。越前の新田義貞側につき西濃地方の南朝側勢力の一角を形成しました。戦国時代には徳山則秀が領主で織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となります。一向一揆など北陸地方の平定に尽力、加賀国松任城4万石の主となります。佐々、前田、不破ら府中三人衆に次ぐ地位にいたと思われます。則秀もまた勝家の人柄に引き付けられ頼みとされた武将だったのでしょう。信長死後も勝家に従い天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では佐久間盛政隊の先鋒として奮戦。戦後、羽柴秀吉に赦され、丹羽長秀に仕えます。早くから徳川家康に通じの関ヶ原の戦いでは家康に仕えて5千石を領します。徳山郷と現在の各務原市に更木陣屋を構え旗本として明治まで存続しました。なおこの「徳山」は「とくのやま」と読むとの説もあり。樹齢600年の一本杉・しろびや杉が語るものを感じたい。ダムが完成すると水位がその根元近くまで達するので枯れてしまうのでは・・?そう心配がされましたが、現在でもこうして力強く生きています。この木を見上げていると何か心が浄化されていくような・・そんな気がしてきました。総貯水量はダントツ日本一という徳山ダム。多目的ダムとしては日本一の規模である一方で総工費3,500億円も日本最大です。巨大ダム建設に対するその是非は今後も検討を要されています。完成後もなおダム必要性について全国的な論争が起きているのも事実です。あ、こんなところに葡萄が落ちてる?、いえいえ、獣の美しい糞ですね。この貴重な自然の中には野生動物たちがいることも忘れてはならない。治水事業と環境保護、そして史跡保護。ここ徳山城から見る湖面からは様々な問題も付きつけられる思いです。徳山城としらびや杉は今もなお湖底の村を見守っているようでした。※徳山ダムより奥の国道417号線は冬季は封鎖されますのでご注意を!(12月中旬~3月上旬まで冬季封鎖、根尾方面からは12月上旬より)(福井方面よりの冠山峠道路、高倉峠塚峠も冬期は閉鎖されます)実は自分、封鎖されるまさにその日に訪問してしまいました(知らずに・・)。調査見学を終えいい気分で帰路、すると国道がゲート封鎖されているではありませんか!事態が飲み込めません・・。朝は普通に通れたのに・・(汗)。すぐ土木事業所に電話連絡とり、施錠解除していただき無事脱出できたという顛末でした。大変ご迷惑をお掛けしました。ここで改めて謝意と御礼を申し上げます。・・スミマセン(-_-;)、ホントに。きっとこれも徳山城のご加護だわ・・。Ⓖは徳山城の位置を示します。Ⓢは徳山城への遊歩道がある本郷望郷広場です。 close

美濃 徳山城  今もなお湖底の集落を見守るかのよう
サイト名 久太郎の戦国城めぐり
タグ 揖斐郡揖斐川町の城めぐり
投稿日時 2020-04-03 08:00:02

「美濃 徳山城  今もなお湖底の集落を見守るかのよう」関連ページ一覧

新着記事一覧

<打込み接・布積み(関八州)> 江戸城、小田原城、佐貫城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹...
シロスキーのお城紀行
2022-09-26 01:00:04

中城城 日本100名城 沖縄 路線バスで行く世界遺産5城 5-4


hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
 ◆中城城 三の郭の石積 またかなり間が空いてしまいました。引き続き3月中旬に久々に沖縄、世界遺産5城を2泊3日で路線バスを利用して...
hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
2022-09-25 14:40:05

<打込接・布積み(奥羽・出羽)> 弘前城、盛岡城、仙台城、会津若松城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を日本の北から南まで展開しているお城の写真をお届けしてきましたが、昨日で一応終了...
シロスキーのお城紀行
2022-09-25 02:00:03

讃岐小豆島 星ケ城  西峰と東峰から成る素晴らしい眺望の山城


久太郎の戦国城めぐり
讃岐小豆島 星ケ城 (香川県小豆郡小豆島町安田・星ケ城山) <県指定史跡> <ちょっと小豆島まで行ってきます・②>坂手港から安田館を訪問した後...
久太郎の戦国城めぐり
小豆島の城めぐり
2022-09-25 01:40:03

第439回:江馬氏下館(北飛騨における江馬氏の繁栄を示す城館跡)


こにるのお城訪問記
訪問日:2021年11月江馬氏下館(えまししもやかた)は岐阜県飛騨市にあった城館です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。北飛騨の雄...
こにるのお城訪問記
岐阜県の城郭
2022-09-25 01:20:03
;