香川・高松城 ~ 日本有数の「水の城」の詳細

香川・高松城 ~ 日本有数の「水の城」
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概要

明けましておめでとうございます。正月からだいぶ経ってしまいましたが、いつもの土日しか休みがない自分にとってはいつもの週が経過しただけ、という状況。本年もよろしくお願いいたします。 今回は城巡りアーカイブスでまいります。前回のアーカイブスは10月はじめですのでほぼ3ヶ月ぶ…… more りとなります。香川県高松市の高松城跡です。この高松市と私の田舎・秋田県由利本荘市は姉妹都市。高松城を築城した生駒親正・一正の末裔が幕末まで旗本として治めていたのが、出羽国由利郡矢島=旧由利郡矢島町・合併して現由利本荘市。この東北は秋田、四国の香川、大変な距離のある2都市はかつての領主が生駒氏であったという縁で結ばれていました。 とにかく10年戦士どころではないこのPCは今、絶不調。このブログのここまでを書き上げるためにすでに約2時間が経過しております。フリーズしては文章が消えるのを繰り返しております・・・最後までいつ辿り着けることやら。 ○高松城 この城は日本100名城の一つ(77番)にして、日本有数の「水の城」として知られています。丸亀城から電車移動したのですが、すでに日差しを見るとかなり遅い時間になっていますね。これは5月中旬の登城でしたので。観光地でもありますので、駐車場などの問題はなかったはずです。 ちょうど訪れた際は本丸天守台石垣の解体・修復工事の最中でした。その案内板。一方、この案内板の背後の建物についても後ほど触れたいと思います。 この海辺のお城はそこかしこに「水」に関わる施設があります。城内の堀に海水を引き込んでおり、どのように水位を調整していたのか本当のところはわからないけれども、幾多の水門でそれを行っていたらしいみたいな内容がどこかの案内板に書かれていました。また、海水と直接つながっている証拠に海魚が普通に堀を泳いでいました。さすがにこれはなかなか見られないものと思われます。 北の丸水手御門(重文)。高松城の特徴を非常に物語る遺構です。左隅にチラッとフェリーが見えていますがすぐそこは港です。往時はこの水手御門の石段の先を直接海水が洗っていました。この櫓は海の道の見張りでしたし、高松藩主は陸路を一切通ることなくいきなり海路で上方へ船で出れるようになっていました。近世の、しかもこれだけの規模の城郭でここまでの海用設備を持っている城はそうそうありません。  御門もよいですが、この月見櫓と渡櫓も立派です。高松も他の城跡と同じく太平洋戦争時の空襲による被害を受けていますが、この櫓や御門は戦災を免れたのです。 門跡。名前は・・・。旭門だったかな??北の丸から入って東の丸へ回り込みます。当たり前ですが、すんなり本丸へ向かえるように城はできていません。まるでグルッと回り込むように近づいていかなければなりません。 こちらも遺構として遺っている櫓。東の丸・艮(うしとら:丑寅、とも)櫓。これも重文です。櫓には旧時刻表示、方角に合わせて名前が付けられることが多いのですが、こちらもその一つ。なかなかキレイです。 現在の旭門。奥に旭橋が見えています。 桜の馬場。なかなか広い敷地です。かつてはこのあたりの藩主の御殿があったのですが、松平氏による大規模改修で御殿は三の丸へ移りました。先の北の丸や東の丸が造営されたのもこの改修時のことです。その名の通り桜が植えられており、今でも春にはお花見で盛り上がる場所だそうです。 前半の写真でもったいぶってお伝えした建物の正体がこれです。鞘橋、といいます。これは本丸と二の丸を結ぶ橋となっています。城は輪郭式の縄張りなので、私が歩いてきたのは今は駅前市街地となっている西の丸→入口すぐの二の丸→北の丸→東の丸→桜の馬場という風にグルッと半円を書くような道です。築城当初の生駒氏時代にはこの橋は「らんかん橋」と呼ばれていて屋根も側壁もなかったようです。江戸後期の図面には屋根と側壁がありますから、江戸中期にはこの橋の形態になったようですね。この形態から刀の鞘に見立てて「鞘橋」と呼ばれていたそうです。 残念ながら当時は天守台は工事中でした。2013年には一般開放されているようですから今は大丈夫でしょうね。かつて江戸時代にはこの上に層塔型3重4階、地下1階という高知城や松山城の天守閣を凌ぐ四国最大規模の天守閣がありました。また、解体工事前は高松藩松平家の初代藩主・松平頼重を祀る玉藻廟がありました。 これは三の丸の入口にあたる桜御門跡。ここには桜御門が戦前まで遺っていましたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失しています。 いかがでしょうか?起伏に富んだ山城とは相対する全く平らな城跡ですが、海に面した地の利を最大限に活かした縄張りはこの規模のお城では大変珍しいものです。水に関わる遺構がちゃんと遺っているのはありがたいですし、堀に養殖の鯛が泳いでいる城はそうそうないかと思います(笑)近世城郭らしい立派な石垣も魅力的ですので、ぜひ訪れてみてください。 〇高松城とは? 別名を万葉集の柿本人麻呂の枕詞にちなんだ「玉藻城」と呼ばれる高松城は、かつてその玉藻の浦と呼ばれた地に築かれました。かつては野原、という名の港町であったこの地は、この時から讃岐国=香川県の首府となったのです。 豊臣秀吉の四国征伐(1585年:天正13年)後に讃岐国のとりまとめを任されていたのは仙石秀久でしたが、彼は後の九州征伐時に先鋒派遣隊の長宗我部勢や十河勢といった四国勢を率いて島津軍と戸次川で戦って大敗。この時の指揮のまずさに加え、戦場に四国勢を残したまま我先に撤退し、取り残された長宗我部元親の嫡男・信親や、十河家の当主・存保などを戦死させるといった失態を咎められて所領を没収されています。彼に替わって大坂にほど近い要国・讃岐国17万6千石を任されたのは、かつては信長直臣としても活躍し秀吉の許でも活躍して信頼されていた生駒親正(1526~1603)でした。 この生駒氏は美濃国で勢力を拡大した、祖は近江国六角氏に連なる土田氏の分家筋にあたります。土田氏といえば、織田信長の祖母、母もこの家の出身であり、尾張織田氏弾正忠家と縁の深い家柄です。親正とは別の系統の生駒氏からは信長の側室(事実上の正室であったと思われる)で長男・信忠や次男・信雄の母となる生駒の方(吉乃とよく呼ばれる)もおります。親正は早い段階から秀吉の与力としてその許で働き、本能寺の変後はそのまま事実上秀吉の直臣となった人物でした。親正は1587(天正15)年、当初引田城に入りましたが、引田城は海に山が迫る半島状の手狭な場所であったことと、讃岐国を支配するには東に偏り過ぎていたこともあってその年のうちに中西部の聖通寺城に移ります。しかし、1588(天正16)年、親正はこの聖通寺城でも不便を感じたのか、新しくふさわしい城を築くことにしました。それが、讃岐国香東郡玉藻浦、今の高松城でした。 城は1590(天正18)年には完成しています。城郭は海に面した平野に築かれた輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸と築かれており3重の堀には海水が引き込まれ、その縄張りは黒田孝高(官兵衛:如水:1546~1609)が手掛けたと言われています。他にも縄張りを行ったとされている人物が細川忠興・小早川隆景・藤堂高虎ですから、逆説的にいえばこの城がいかに城郭として完成したものであったかを物語っています。近世城郭といっても世の中はまだ固まっておらず、合戦を意識した城造りが行われています。この高松城の役割の一つが瀬戸内海の海上交通の掌握であったことは間違いなく、堀に海水を取り込む=城内からいつでも海上に軍船を出撃させられるという水軍運用を前提とした縄張りがそれを証明しています。高松城は日本初の本格的な海城であると言われているのです。 秀吉晩年時代に中老職(他に中村一氏・堀尾吉晴)にまで上ったとされる親正ですが、秀吉死去後に発生した関ケ原合戦の際はその対応に苦慮しています。石田三成の挙兵時に大坂にあった親正は成り行き上西軍に組みすることになりました。これは親正と秀吉の生前の距離を思えば自然な事ととも言えます。一方、子の一正(1555~1610)はすでに軍勢を率いて徳川家康の会津征伐に従って東下していました。一正は父が西軍に加わり兵を丹後国田辺城攻めに派遣(親正本人は従軍していない)した後もそのまま家康に従って関ケ原本戦に臨んで主戦場で戦い武功を挙げています。結果的に一正の働きを家康は評価し、親正西軍加担の件は問いませんでした。実際、親正は戦前にすでに大坂を離れて高野山に登り出家・剃髪して恭順の意思表示をしていたこともあるでしょう。こうして一正は讃岐一国の国持ち大名の地位を安堵され、家督も1601(慶長6)年に正式に譲られて高松藩2代藩主となりました。彼は1608(慶長13)年にいち早く妻子を国許ではなく江戸に居住させるなど、江戸幕府に忠義を励む外様大名としての有り様を示し江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に賞されています。 外様大名にはまだ厳しい姿勢を幕府が持っていた時代。一正が亡くなった跡を継いだ正俊(1586~1621)も大坂の陣に率先して加わり、幕府に対する心証を大切にしていたように思えます。 正俊がまだ壮年(36歳)にして死去し、跡を若干11歳の高俊(1611~1659)が継ぐと、高松藩生駒氏に暗雲が漂い始めます。幼少での後継のため、幕府はその後見に高俊の外祖父で識見人格とも当時衆を抜く藤堂高虎を任じました。しかし、高俊が1626(寛永3)年に成年・叙任を受けて直接統治に臨んだころから家臣団の内紛が激しくなり始めます。一般に政務を顧みず遊興に耽ったとされる高俊。家臣団の争いは1637(寛永14)年、ついに沸点を迎えてしまいました。生駒帯刀らが幕閣の重鎮・土井利勝や藤堂高虎の後継・高次に、対立する家臣・前野助左衛門らの不正を訴え出たのです。これに対し前野らは徒党を組んで藩を退去する事態となりました。当時、一歩一歩外様大名潰しを行っていた幕府に絶好の機会を与えてしまったことになりますね。1639(寛永16)年、幕府は高松藩の騒動の詮議を始めます。翌1640(寛永17)年7月26日、騒動の最終責任は藩主・高俊にあるとされ、讃岐一国17万6千石は没収の上、出羽国由利郡に流罪との裁定が下ったのです。こうして国持ち大名であった高俊は罪人として遠い秋田の地に移る事になったのです。しかし、幕府はこれまでの生駒氏の幕府に対する忠勤を鑑み、高俊に堪忍料として由利郡内の矢島1万石を与えました。こうして高俊は、矢島に改めて陣屋を構え高松藩4代藩主から矢島藩初代藩主となりました。これが世に言う「生駒騒動」を極めて簡略に書いた内容になります(笑) この奇縁が、後に高松市と矢島町、由利本荘市の姉妹都市提携につながるのですから、人の縁というのはわからないものです。また、由利本荘には生駒姓が秋田にも関わらず比較的いて、その中に乃木坂46を卒業された生駒里奈さんなどがいるという事も付け加えておきます。 ・・・・・・ さて、高松の地は幕府親藩に任されることになりました。1642(寛永19)年、常陸国下館5万石から讃岐国高松12万石(西部の丸亀には別に山崎家治が6万石で入封)を与えられたのは松平頼重(1622~1695)でした。松平という姓はこの時代の大名で別に珍しくもなんともありません。しかし、この頼重という人物はそうそういる松平さんではありません。この頼重の父は徳川頼房、そう徳川御三家の一つ、水戸藩の初代藩主です。その子にあたるのですから、この頼重はあの「水戸黄門」徳川光圀の兄弟ということになります。しかも、彼はその光圀の同母兄、実兄にあたるのです。頼重が母の腹の中にいる頃、3代将軍・徳川家光には子がおらず、幕閣の中心人物でもあった家光の叔父・頼房は自分に先に子ができたことを憚って堕胎を命じたと言われています。主君になかなか子ができない時に重臣がそれを忖度して自分の子を捨てようとする例は、有名どころでは伊達政宗に懐刀として仕えた片倉景綱(小十郎)などが挙げられます。彼の場合はそれに政宗が気づいた事から事なきを得たと言われています。 さて、頼重はこの世に生まれているのですから堕胎はされていないわけです。父・頼房の命に逆らいながらも家臣の勧めもあって頼重はこの世に生を受けました。しかし、その誕生は頼房にも秘匿され、三男である後の光圀懐妊時には頼重の存在を悟られないよう京の滋野井季吉の許に送られて養育されました。1632(寛永9)年にはその事情を知る水戸藩から招かれて藩邸に入りますが、5年後の1637(寛永14)年まで父・頼房へのお目見えもできなかったのです。この間に水戸藩の後継は同母弟の光圀と定められており、頼重は次男として扱われ1638(寛永15)年にようやく将軍・家光への御目見えを果たし、その翌年には常陸国下館5万石の大名に取り立てられています。そして生駒騒動後の高松藩に、さらにその3年後21歳で封じられることになったのです。 頼重は高松藩12万石の一親藩大名、「頼房の次男」の身でありながら、将軍名代を務めて後水尾天皇に謁見するなど、非常に徳川家の中で高い待遇を得ていたように見える頼重。実弟・光圀は、長男でありながら父の将軍・家光への忖度によって幼い頃から不遇で、水戸藩の後継にもなれなかった頼重に対する「兄への敬意」を忘れなかったと言います。光圀は実の子がいたにも関わらず、頼重の子・綱方と綱條を養子に迎えて水戸藩を継がせています。いわば本来の「長幼の序」に戻そうとしたのだと思います。父の忖度がなければ頼重が長男として水戸藩2代藩主となり、その子が3代藩主になるのが正しい順番だと考えたのでしょう。また、頼重はその光圀の志に応え、光圀の子・頼常を養子に迎えて自身の跡を継がせています。ここらへんに通り一辺倒ではない実の兄弟の何かを自分は感じますし、光圀の高い志を感じるのです。 頼重はただ血脈だけがよい親藩大名ではありませんでした。彼は高松に封じられた2年後、1644(寛永21年)に今でも水不足に悩む高松城下に上水道を敷設させています。これは江戸の玉川上水より9年も早い対応でした。彼は茶の湯や文化面でも功績が多く、藩の茶道指南に武者小路千家の祖である一翁宗守を据えたり、藩内の寺社の再興・修復にも尽力しています。和歌の嗜みもあった頼重は三十六歌仙の扁額を金刀比羅宮らに奉納するなどしています。また隠居前の1669(寛文9)年には天守閣が完成しています。 高松城が今の規模になるのはこの頼重の養子で光圀の子・頼常の時代で、北の丸や東の丸が造営され、三の丸に御殿が移ったのもこの頼常の時の改修によります。 その後、この高松藩松平家は代々続いて改易なく明治時代を迎えています。 〇行き方 こちらについては高松市の市街地に位置していますし、アクセスに特に困ることもないと思いますので今回は割愛させていただきます。 四国の城巡りの際はぜひ登城してみてください! 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投稿日時 2020-01-20 22:20:02

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