下赤坂城跡(南河内郡千早赤阪村) ・楠木正成が幕府軍を翻弄した山城「国史跡赤阪城跡」の詳細

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記事タイトル 下赤坂城跡(南河内郡千早赤阪村) ・楠木正成が幕府軍を翻弄した山城「国史跡赤阪城跡」
概要

下赤坂城跡2017年10月訪問下赤坂城(しもあかさかじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村森屋にある城跡です。鎌倉時代末期より南北朝時代に、大楠公と呼ばれた楠木正成が鎌倉幕府の軍勢と戦った山城の跡とされ、現在は国の史跡に指定されています。下赤坂城跡(南河内郡千早赤阪村)大阪府下唯一…… more の村である千早赤阪村の北西部にあるこの下赤坂城跡周辺には、日本の棚田百選にも選ばれ、近年は南河内有数の絶景ポイントとしても人気の「下赤阪の棚田」が拡がっています。歴史と概要下赤坂城は、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の討幕運動に参加した楠木正成が築き、鎌倉幕府軍を相手に戦った城として有名ですが、実際のところ正確な形や大きさはわかっていません。元弘の乱の主戦場の一つとなったこの城は、元弘元年(1331年)の後醍醐天皇による笠置山での挙兵に呼応した楠木正成が急遽築城したした山城とされています。金剛山地から北へ延びる尾根の上に位置しており、現在の村役場の西側の尾根の上にある平坦地が主郭(本丸)の跡とする伝承が残っていますが、「史跡 赤坂城址」の石碑はそこから600mほど南の中学校裏にあります。一般的に日本の城として想像される戦国時代の城より200年以上前の城で、急造だったことから堅固な石垣や塀で囲われたものではなく、崖や急斜面を利用して木製の柵や塀、木戸などで構成された「砦」のようなものだったと思われます。「国史跡 赤阪城跡」の説明板現在、城としての遺構は残っていませんが、城のあった尾根を「甲取(かぶとり)山」と呼ぶ他、北の方には「矢場武(やばたけ)」といった城を連想させる地名が今も残っています。周辺には幕府軍と戦った城が多数ありますが、下赤坂城は楠木正成が築城した千早赤阪村、富田林市、河内長野市に点在する城砦群「楠木七城」の一つに数えられています。なお、現在は城跡としては「下赤坂城跡」、史跡としては「国史跡赤阪城跡」との表記が公式のようですが、古い石碑などでは「坂」と「阪」のどちらもあり、使い分けはそれほど厳密ではなかったようです。昭和9年(1934年)3月に国史跡に指定されました。赤阪城の戦い北条得宗家が権勢を振るう鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)、後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕を計画しますが事前に発覚し、関係者が処分される「正中の変(しょうちゅうのへん)」が起こります。7年後の元弘元年、後醍醐天皇は再度討幕を計画しますがまたも事前に発覚。前回は見逃された後醍醐天皇も今回は僅かな供と御所を脱出し、現在の京都府南部の相楽郡笠置町にある笠置山に逃れ、そこで挙兵します。千早赤阪村文化財位置図笠置山は1ヶ月弱持ちこたえましたが元弘元年9月(1331年10月)の末、幕府が差し向けた圧倒的大軍の前に陥落。この時、後醍醐天皇と尊良親王、宗良親王などは幕府軍に捕らえられましたが、第三皇子である護良親王(大塔宮)は河内の赤坂城へと逃げ延びました。赤阪城への幕府軍の攻撃が始まったのは9月中頃とされます。当初は比較的小規模な攻撃だったようですが、10月中旬には護良親王を擁して赤坂城に立て籠る楠木正成に対し、幕府の4軍が京から出陣、赤坂城に殺到しました。文学作品である「太平記」によると、その数は30万余騎で、対する楠木軍は500人程度だったとされます。村役場前にあった説明板太平記などによると、鎌倉幕府の圧倒的大軍を前に、楠木軍は数々の奇策で迎え撃ったといわれています。いくつかを紹介すると...急な坂道に竹の皮を敷いて寄せ手(敵)を転ばせて攻撃する、休息に入った敵を城内の兵と城外の伏兵で奇襲する、予め二重に作られた塀に敵が上ってきたところで外側の塀を切って落とす、塀の下の敵に大木、大石、熱湯を浴びせかる等々、様々な戦術で幕府軍に損害を与えました。しかし、にわか造りで兵糧の少ない赤坂城では長期間の籠城戦は不可能であることを理解していた楠木正成は、10月21日夜に自ら赤坂城に火をかけ、自害したように見せかけて脱出。幕府軍は赤坂城を占領しますが、正成と護良親王が逃亡に成功していたことには暫く気付かなかったようです。翌元弘2年(正慶元年・1332年)、幕府方の湯浅宗藤が守る赤坂城に死んだはずの楠木正成が現れ、奇策をもって城を奪還。湯浅宗藤は一戦もせず投降し、以後正成の配下となります。勢いに乗った楠木軍は河内・和泉を席巻しますが、鎌倉幕府が正成討伐の大軍を派遣すると再び金剛山周辺に立て籠りました。今回は、赤坂城の2kmほど南東に上赤坂城、6kmほど南東に千早城など数々の軍事拠点を造り幕府軍を待ち受けました。元弘3年(正慶2年・1333年)、再び赤坂城(下赤坂城)に幕府軍が攻め寄せ、善戦しますが陥落。その後、上赤坂城も落城したものの、楠木軍は千早城に後退して徹底抗戦し、幕府の大軍を千早・赤坂に釘付けにしました。この戦いでの幕府側の予想以上の苦戦は全国に伝わり、各地で倒幕の気運が高まりました。5月22日、関東において挙兵した新田義貞が手薄になった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなります。城跡の現状前述の様に、城としての遺構は残っていませんが、「史跡 赤坂城址」の碑がある尾根の頂上付近は公園として整備され、「下赤阪の棚田」を眺めるためのスポットとしても知られています。「赤阪城址」を示す石碑(現在は通行禁止)古い下赤阪の棚田のガイドなどに示されている通り、かつては千早赤阪村立中学校の校内を抜けて城跡に至るコースが案内されていましたが、現在は中学校内は許可なく立入禁止になったので別のコースで上ることになります。下赤阪の棚田・赤阪城跡見学時の駐車場その現在案内されている上り口が、中学校への入口から1kmほど金剛山寄りにある富田林市消防署千早赤阪分署のとなりにあります。棚田展望広場消防署横の上り口から坂道を700mほど上ると城跡の石碑のある棚田展望広場に着きます。説明板など展望広場には東屋といくつかの地図や説明板などが設置されています。「史跡 赤坂城址」の碑「国史跡 赤阪城跡」の説明板の裏側は高さ2m前後の土が盛り上がっている部分があり、その上に「史跡 赤坂城址」の石碑が立っています。「史跡 赤坂城址」の碑この石碑は昭和14年(1939年)3月に設置されたものです。石碑の立つ高台が自然のものか人工的に造られた盛土(土塁?)なのかは不明です。なお、高台の中学校側(東側)は石垣になっていますが、これは比較的新しいものと思われます。大阪平野を望む(右が千早街道)石碑と中学校の間を通る道は旧千早街道で、北は甲取坂、甲取橋を経て現在の国道309号森屋交差点付近へ、南は千早城方面へ至ります。下赤阪の棚田この「赤坂城址」碑のある棚田展望広場付近からは、日本の棚田百選にも選ばれている「下赤阪の棚田」がよく見えるのは当然ですが、北に目を向ければ南河内だけでなく大阪市内方面まで見通しの効く場所ということがわかります。甲取坂赤阪城跡(展望広場)から千早街道を北に1kmほど行くと激戦地の一つとされる甲取坂があります。甲取坂登り口(2019年10月)逆に、甲取坂から赤阪城跡に向かうには、国道309号森屋交差点すぐ西の交差点(千早川に架かる菊水橋の東詰)を南に入り、旅館「赤城館(せきじょうかん)」の前を通過しすぐの甲取橋を渡ります。橋を渡るとすぐ右側に現れるやや細い坂道が甲取坂です。甲取坂(2019年10月)甲取坂に入るとすぐに道は左にカーブし勾配がきつくなってきます。さらに坂が比較的なだらかになるまでの100mほどの区間は木々も多く見通しが悪いです。当時の状況ははっきりとはわかりませんが、恐らくこの辺りが防御に適した地形だったのかと思われます。「赤坂城軍事楠木兵法其之壱」(2019年10月)なお、甲取坂を上り始めて300mほど行くと、「赤坂城軍事 楠木兵法(あかさかのしろいくさのこと くすのきへいほう」と書かれた看板があり、楠木軍の戦いぶりや周辺の地図などが書かれています。●千早赤阪村ホームページ 国史赤阪城跡(下赤坂城跡) →http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/sangyo_bijinesu/kanko_annai/2818.htmlアクセス公共交通機関では、近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスの千早線に乗り「消防分署前」(旧「村民運動場前」)バス停で下車。消防署分署の隣に赤い案内板の立つ駐車場があるので、そこから駐車場、消防署の裏を通る道を上り、約700m進むと展望広場・下赤阪城跡に着きます。車では千早赤阪村の国道309号線「森屋」交差点を大阪方面からは右折、奈良方面からは左折。ロープウェー方面へ1.7kmほど進むと富田林市消防署千早赤阪分署があるのでその少し先右側にできた新しい駐車場を利用します。消防署の駐車場と間違えないようご注意ください。Shimoakasaka Castle Ruins(Chihayaakasaka Vilage,Osaka Prefecture) close

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タグ 千早赤阪村 古戦場 史跡 城跡 大阪府
投稿日時 2019-11-27 15:20:03

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