江戸城にゆく特別編  其の六:徳川将軍家墓所の詳細

江戸城にゆく特別編  其の六:徳川将軍家墓所
廃城にゆく
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記事タイトル 江戸城にゆく特別編  其の六:徳川将軍家墓所
概要

特別編六回目の今回は東京都港区にあります徳川将軍家墓所です。増上寺の境内にあります徳川家墓所ですが、戦災にて焼失したしまいます。戦災した旧徳川家霊廟は、現在の大殿南北(左右)に建ち並ぶ壮麗なものであったと伝えられています。昭和33年夏、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土…… more 葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されました。鋳抜門です。文昭院殿霊廟(徳川6代将軍家宣公)の宝塔前にあった中門であったものを移築ました。門には葵の紋がありました。左右の扉には昇り龍と降り龍が鋳抜かれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。こちらにに埋葬されているのは、二代秀忠、五代将軍兄弟の綱重、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として二代秀忠夫人崇源院、六代家宣夫人天英院、十一代家斉夫人広大院、十三代家定夫人天親院、十四代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては三代家光の桂昌院、六代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。拝観料は五百円でした。現在の出入口はこちらからになります。境内の様子です。反時計回りに見ます。正面右側に二代秀忠公の墓所があります。焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでありました。しかし、惜しくも木造のため、戦災で焼失してしまいました。境内の左半分です。境内から見る鋳抜門です。戦争で焼失前の御霊園の古写真が掲示されています。では、反時計回りに廟を見てきましょう。十二代将軍、家慶公廟です。家斉公の第2子として、1793年に出生し、1837年、十二代将軍となります。天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなります。1853年、あわただしい世情の中61歳で逝去しました。九代将軍、家茂公廟です。吉宗公の長子として、1711年に出生しますが、生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、1761年、51歳で逝去しました。調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたということです。七代将軍、家継公廟です。家宣公の第3子として1709)年に出生し、父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。1715年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま1716年に8歳で亡くなられました。廟は文昭院殿廟に並んで造営されました。中央にあります秀忠公廟です。秀忠公は家康公の第3子として、1579)年に出生し、1605年、二代将軍に就任します。将軍職にあること18年をかぞえ1632年、54歳で逝去しました。大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、霊廟が順次造営されました。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋をつくしたものでしたが、惜しくも木造のため戦災で焼失しています。現在は、内室崇源院と共に合祀されています。両サイドにあります灯籠です。六代将軍家宣公廟です。綱重公の子として1662年に出生し、1709年将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげますが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、1712年、51歳の生涯を閉じました。増上寺の北霊域に造営された文昭院殿廟ですが、参詣した永井荷風は、荘重美麗な外観への驚きと神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を配した内部の「秩序の世界」に感嘆し、その著「霊廟』の中で「広大なる此の別天地の幽邃なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される」と告白しています。十四代将軍、家茂公廟です。紀伊徳川家、斉順公の第2子として1846年に出生し、1858年、将軍家の養子となり十四代将軍となりました。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼公によって安政の大獄が始まりましたが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えます。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の大坂城で病のために逝去しました。享年21でした。十四代将軍家茂公の正室、静寛院和宮廟です。静寛院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂公と並んで祀られていました。宝塔の形は御夫婦同じ物でありましたが、家茂の石塔に対して青銅製です。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していましたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁しました。家茂公の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じた人物です。没後遺体は京都へ戻すよう沙汰がありましたが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られました。最後に合祀塔です。現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重公をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されています。なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われています。余談ですが、説明員の方の話では、明治になってから造られた墓は、将軍の墓に対し、すべての点において荒削り、不揃いですが、ことからこんなところにも時代の変遷を感じることができるそうです。菊の御紋章が掘り出されているのが特徴です。ここは都内でも静かな雰囲気で厳かな気分になる場所です。増上寺の散策も一緒に行くといいでしょうし、東京タワーもすぐ近くにあります。次回は、増上寺の散策に向かいたいと思います。【其の七に続く】訪問日:2019年4月▽ ▽ランキングに参加しています。  応援(クリック)よろしくお願いいたします。   ⬅︎  クリックしてくださいね〜 にほんブログ村  close

江戸城にゆく特別編  其の六:徳川将軍家墓所
サイト名 廃城にゆく
タグ 東京都にゆく
投稿日時 2019-08-07 15:00:02

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