江戸城にゆく皇居東御苑編  其の壱:大手門から大手中之門跡までの詳細

江戸城にゆく皇居東御苑編  其の壱:大手門から大手中之門跡まで
廃城にゆく
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記事タイトル 江戸城にゆく皇居東御苑編  其の壱:大手門から大手中之門跡まで
概要

東京都にあります江戸城址です。当ブログ126城目となる江戸城址は、ご存知、江戸幕府将軍の居城として政治の中心を担っていた東西約5.5km、南北約4km、周囲約14kmの城域を誇り、名実ともに近世城郭として国内最大の巨大城郭でした。1475年に太田太田道灌によって創築され、1590…… more 年以降徳川家康公をはじめとする江戸幕府将軍三代によって増設・整備され総構えが完成しました。現在は西ノ丸跡に皇居がおかれていますが、その他は皇居東御苑として一般開放されています。今回は三ノ丸大手門より入城します。橋から右の大手濠です。こちらは橋から左の桔梗濠です。江戸城のお濠は、橋ごとにエリア分けされており、それぞれに名前があるのが特徴です。高麗門と渡櫓型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、現在は皇居東御苑のメインゲートとなっています。大手門(三ノ丸大手門)は江戸城の正門で、諸大名はここから登城し三ノ丸に入りました。勅使の参向、将軍の出入りなどもこの門から行うのが正式だったそうです。中から見る高麗門です。高麗門をくぐると枡形になっており、右に折れると大きな櫓門が構えています。櫓門です。櫓門は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大きさです。徳川家の居城の正門だけあって、ここの警備は厳重をきわめ、10万石以上の譜代諸侯がその守衛にあたっていました。番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽織袴でひかえ、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組をそなえ警戒にあたっていたそうです。大手門説明板です。1607年に藤堂高虎公によって1年3ヶ月ほどかけてつくられましたが、その後何度も焼失し、再建されています。1620年の江戸城修復に際には、伊達政宗や相馬利胤によって再建され、現在のような桝形門になったといわれています。角のスペースに渡櫓の屋根を飾っていた鯱が展示されています。この鯱は刻印に「明暦三丁酉」とあり、明暦の大火で焼失した後、1659年に大手門が再建されたときのものと考えられています。現在の高麗門は、1967年に復元されたものになります。高麗門は、残念ながら1945年の空襲によって焼失してしまいます。高麗門をくぐります。三ノ丸跡に入りました。こちらは宮内庁三ノ丸尚蔵館です。皇室に代々受け継がれた美術工芸品が展示されていました。大手三之門跡です。かつてはここに高麗門と橋がありました。三之門跡の枡形の中心にあります同心番所です。番所とは警備詰所のことで、ここには同心と呼ばれる武士がここに詰め警備にあたっていました。御三家をのぞくすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へのぼったため、この門は「下乗門」とも呼ばれています。屋根瓦には、徳川家の葵の紋がある屋根瓦が残っていました。左に緩やかにおれ曲がりながら枡形を進みます。大手三之門の渡櫓門石垣です。同心番所の前を通り、三ノ門渡櫓石垣の間を抜けると、長さ50メートルを超える百人番所があります。この建物は数少ない江戸時代から残る江戸城の遺構です。ここは本丸の入口にあたる門であることから、江戸城最大の検問所でした。百人番所には「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたそうです。同心100人ずつで警護していたので、百人番所と呼ばれています。ちなみに百人組は将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際には山門前を警備するなど、幕府直轄(若年寄支配)の独立部隊として編成されていました。百人組の組屋敷は、それぞれ伊賀組は大久保に、甲賀組は青山、根来組は市ヶ谷、二十五騎組は内藤新宿にあり、これらの組屋敷は、すべて甲州街道沿いにありました。これは徳川家康公は、江戸城が万一落ちた場合の備えとして、将軍は江戸城半蔵門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていたからといわれています。百人組にはこうした有事の際の護衛の任務もありました。大手三之門を抜け、百人番所の前を通ると、いよいよ本丸へと近づきます。本丸へ入るには中之門を通らなければなりません。大手中之門跡です。この中の門の石垣は江戸城の中でも最大級となる約36トンの巨石で築かれています。高さ6mにも及ぶ巨大な石垣は見た目にも美しい、丁寧に加工された隙間のない見事な「切込接ぎ・布積み」の技法で積まれています。地面には門の礎石も残っていました。大手中ノ門跡のすぐ右先にあります大番所です。この大番所は大手中ノ門を警備するための詰所でした。中の門の内側に設けられ、百人番所、同心番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸への最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。この大番所も同心番所や百人番所と同様に江戸時代から残る貴重な遺構です。ここからは上り坂になっており、坂の途中に最後の門である中雀門跡があります。次回はこちらからスタートします。【其の弐に続く】訪問日:2018年9月▽ ▽ランキングに参加しています。  応援(クリック)よろしくお願いいたします。   ⬅︎  クリックしてくださいね〜 にほんブログ村  close

江戸城にゆく皇居東御苑編  其の壱:大手門から大手中之門跡まで
サイト名 廃城にゆく
タグ 東京都にゆく
投稿日時 2019-05-24 14:40:04

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