東莱邑城 [1/2] 文禄の役で日本軍が攻略した朝鮮王朝の行政拠点。の詳細

東莱邑城 [1/2] 文禄の役で日本軍が攻略した朝鮮王朝の行政拠点。
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記事タイトル 東莱邑城 [1/2] 文禄の役で日本軍が攻略した朝鮮王朝の行政拠点。
概要

東莱邑城(とんね ゆうじょう)は、朝鮮王朝時代に釜山一帯を管轄した東莱府が置かれていた場所で、文禄の役で釜山に上陸した日本軍が釜山城に続いて攻略した場所とされる。邑城とは行政の拠点を外敵から守るために城壁で囲ったもので、内部は日本の城郭のような技巧的な構造は少ない。実際 日本軍も…… more 北西の防御が薄いエリアから侵入し攻略したと記録に残る。日本軍は東莱邑城を攻略後、東の小山上に日本式の東莱倭城を築いた。戦後 邑城も倭城も放置されていたが18世紀に倭城跡を含める形で邑城が巨大化して再建されている。その後期邑城も日本統治時代に都市化で破壊されたが、近年復元されている。今回はその復元された後期邑城を見学した。 <基本データ> ●名称:東莱邑城(とんね ゆうじょう/とんね うぷそん) ●所在:釜山広域市東莱区 (地図) ●城主:朝鮮王朝 ●築城:1446年 ●遺構:石垣基部、復元石垣、復元城門 ●時間:1時間45分 (15:45−17:30) ●情報:朝鮮邑城 訪問時期:2018年11月 東莱邑城 訪問記 − 其の一、二。 ●続・倭城めぐりの旅 [2018] – 熊川/泗川/順天/長門浦/東莱/加徳/金海竹島 ●倭城めぐりの旅 [2017] – 安骨浦/釜山母/機張/西生浦/蔚山/永登浦/松真浦/長門浦/梁山/亀浦 <訪問記> 東莱邑城へやってきた。今まで見てきた倭城とは全く異なる、この異質な空間。石垣や城門が復元されており、資料館もあるそうなので、散策しながら色々と見てみよう。ここは山の上に築かれた「北門」。 眼の前の北門と城兵が気になるが・・・まずは資料館で基本のお勉強。門の向かいの凹んだ場所に立つ建物が資料館となっている。無料。 資料館の中は中央に巨大な東莱邑城のジオラマ。復元にあわせ、後期邑城の姿だ。周囲にパネル展示、だが基本は英語とハングルベース。 東莱邑城のジオラマ。山を2つ3つ取り込んだ区画を、万里の長城のような巨大な石垣の城壁が取り囲んでいる。城壁は高いが一箇所破られると終わりという構造。城門は外側に弧状の壁が築かれた、独特の形をしている。ちなみに現在は、左端の山の上に見える楼門(北門)のところにいる。左が北で、正面に見える独立峰の小山が、倭城が築かれた場所。今回は北門から下山途中にある西将台および城下の役所跡などをめぐっており、東の倭城跡は残念ながら未訪。 山の上に建てられた望楼で、将台と呼ばれる場所。これは最も高い場所に築かれていたという北将台か。 周囲のパネル展示。これは文禄の役時の「東莱城の戦い」を描いた古絵図で、城の姿も現在復元されている後期邑城ではなく、15世紀に築かれた前期邑城となっている。分厚い城門の上から槍を付く朝鮮兵と、城壁の周りを取り囲む日本兵。城壁は高石垣ではなく、石垣は下部の二三段のみで、上は青く塗られている。内側は石段になっているようだ。土塀か木造の板塀だろうか。よく見ると、右上の城壁が破られ、中に日本兵が入り込んでいる。内部は防御施設がほとんど無いので、こうなるともう終わり。 説明パネルを見てると、まさに右上の城門が破られたシーンの説明があった。「日本軍は相対的に脆弱だった城の北西部を攻撃し、砦の防衛ラインを破った。日本軍に比べ寡兵だったこともあり、城は日本軍の手に落ちた」とある。兵の多寡よりも、城の構造と守り方に問題がありそうだ。 東莱城での戦いの有名なエピソードとして、日本軍と朝鮮軍の札でのやりとり、がある。日本軍の目的は、朝鮮攻めではなくその先の明国だった。そのため道を通せば戦を回避と通達するも朝鮮は明国と君臣関係(冊封)にあり拒否、その結果 朝鮮半島を舞台にして日本軍vs明・朝鮮連合軍 の戦いへと発展した。以下英文訳→「4月14日の総攻撃の前、日本軍は城の前で札を掲げて意思を表明した−−もし戦いを希望するのなら戦うが、戦いを望まないのであれば道を譲れ(戦則戦矣 不戦則假我道)。対する東莱府使・宋象賢は、戦いで死ぬのは容易いが、通り抜けさせるのは難しい(戦死易 假途難)−−と札を掲げ、その札を敵中に投げつけた。」 ざっくりと資料館を見たところで、復元されたお城をサクッと見て回ろう。東莱邑城は1446年に築かれており、文禄・慶長の役で落城後 倭城が造られ戦後は放置されていたものの、1731年に再び整備され朝鮮王朝の邑城として機能。その後 日本による併合時に市街化計画によって多くが破壊され住宅地となった。今の姿は1731年に復元された後期の姿だが、泗川城や順天城に見られるように史実どおりではなく今風に作り直している可能性も高い。 北門の中へ。キレイに切り揃えられた立方体の石材がキレイに積み上げられている。一番下部に黄色い不整形な石が見える。これが現存の遺構とのこと。この現存石と、上に積まれた石材を見る限り、キレイに盛った整備のようだ。 話半分にして見ていこう。模型で見た、独特な形の城門の外側へ。外側に弧状の壁が張り出している。門の入口までまっすぐに進ませない考え方は日本の食い違い虎口などと共通するようだ。今は城門部分に扉は無いが、先の古絵図には扉が描かれていた。 もう少し引いて。外側の城壁は結構分厚い。 更に下がると、入口部分を完全に弧状の城壁が遮っていて、まったく入口が見えない事がわかる。ただ、先の資料館にあった古絵図を見返すと、文禄の役当時、城門はこの弧状の外壁は無かったようだ。それに今は上まで石垣だが、古絵図では前述の通り石垣は下の二三段のみで、上は土塀か板塀だったようだ。これはその後の姿を模したものだろう。 北門の外側から、城壁を見る。山に向かって石壁が伸びている。この上には上がらなかったが、最頂部には北将台(ぱくちゃんで)と言う建物がある。 ふたたび北門の内側へ戻ってきた。上の楼門部分に上がってみよう。 北門の二階部分へ。東照宮のように、内部も派手に彩色されていた。 北門二階部分から、城の外側を見てみる。結構な高さ。日本軍が攻めてきたときの城壁がどれぐらいの高さだったのかは不明。 カーブしているところを見てみる。上部はレンガになっていて、銃眼も多数そろえられている。 では城壁に沿って進んでいこう。最も高い山の方ではなく、少し上がってから市街地へ下山するルートとなる。市街地側にもいくつか遺構や見どころがある。 城壁から、北門を見返す。柱の上に屋根が載っただけの簡素な建物で、日本の城のように分厚い壁に囲まれた居住性も兼ね備えた「櫓」ではない。あくまで外から派手さ(威厳)を見せるための建物か。 下りとはいえ、少しだけ小山を上がってから降りる。少しだけと聞いていたけど、結構のぼりの先は長そうだ。 ある程度あがってから、見返す。左奥の山頂部に北将台があり、そこまでが城域。そこから城壁は右へ折れ、右奥に見える山をぐるっと囲むような形で城壁が築かれていた。こうして見るとかなり広い。右奥の山が、倭城が築かれ、その後 後期邑城に取り込まれ東将台が築かれている場所だろうか? 未訪のため次回はぜひ行ってみたい。 キレイな石材で当時以上にきれいな姿で再建された城壁だと分かっていても、色んな角度で見て結局楽しんでしまう。城壁に築かれた凹みから覗いた城壁と北将台のある山。日本の石垣と異なり石垣は垂直に積み上げられている。このような張り出し部からだと横矢を掛けられるものの、真上からは乗り出さないと全く攻撃できない事がよく分かる。 張り出し部。めっちゃ張り出している。 張り出し部から、城壁の下部を見てみる。三段ほど古い石垣が残っていたようだ。その上に、似ても似つかぬ整形された石材をそのまま積み上げている。北門あたりのようにレンガのように同じ大きさの石材をレンガ積みした形ではなく、少しパズルっぽい加工がなされている。 下に降りていくと、段々城壁の雰囲気が変わってきた。石垣は土塁の側面のみとなり、上にあった石垣の壁は無くなった。当時もこうだったのだろうか、あるいは予算不足で下の方の復元は適当なのか。 土塁の上を進んでいく。これだとやっぱり簡単に登られてしまいそうなので、当時はちゃんとこのあたりも上まであったのだろう。 石垣の復元はしかもここで終わってしまう。 あとは石垣が撤去され土の盛り上がりだけが残っている場所を下へ降りていく。先の方を見るとまた途中から石垣が復元されているようだ。 西将台。北、東、西と将台がそれぞれ復元されている。建物の正面(写真左側)にちゃんと「西将臺」と書かれていたのだが、何故かその写真を撮っていなかった。 西将台のところにあった説明板。西将台の説明ではなく、東莱邑城の説明板だった。日本語と中国語の説明が3行しか無いが、英語とハングルはその7倍ぐらいの文量が書かれている。 西将台からは斜面に沿ってずっと石垣の城壁が復元されており、そのまま山を降りて市街地へ続く。城壁と土塁の奥にはビル群が見えるこのコントラスト。 >> 東莱邑城 [2/2] へ続く。<< 訪問時期:2018年11月 撮影機器:FUJIFILM X-A3 + XF10-24mm – – – – – – – – ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^) 投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね! ページの一番上に戻る close

東莱邑城 [1/2] 文禄の役で日本軍が攻略した朝鮮王朝の行政拠点。
サイト名 城めぐりチャンネル
タグ お城 倭城
投稿日時 2019-02-10 02:00:02

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