松山城③の詳細

松山城③
山城めぐり(兄弟ブログ biglob)
ページの情報
記事タイトル 松山城③
概要

馬出から三の曲輪へ 曲輪4から空堀を経て 三の曲輪の東側にある馬出 馬出から土橋を渡り三の曲輪へ 土橋を渡って 三の曲輪は縄張り図でみると魚のように二の曲輪から東・北へ回り込んでいます。土橋からは尾鰭に渡るように見えます。 棒柱説明 尾鰭の部分から二の曲輪へ通じて…… more います。 三の曲輪(二の曲輪からは北東に当たります。) せっかくですから棒標を入れて置きます。 三の曲輪西先端部 三の曲輪から曲輪4を見ています。 三の曲輪の尾鰭に戻り ここを渡れば二の曲輪ですが次回とします。 上杉朝定 大永5年(1525年)、上杉朝興の子として生まれる。天文6年(1537年)4月に父が死去したため、家督を継いで当主となる[1]。後北条氏に対抗するため、武蔵府中[2]・深大寺に深大寺城を築いている。ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に、7月には河越城を攻められ、朝定は敗走して、以後は松山城を居城とした[3]。 天文10年(1541年)、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗する。天文14年(1545年)には駿河国の今川義元と連携して対北条大包囲網を作る。義元が挙兵して氏康が駿河へ出陣した隙に、憲政や古河公方・足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。河越城主・北条綱成の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。しかし翌天文15年(1546年)4月20日、今川との戦いを収めて河越城の後詰にかけつけた氏康の奇襲に遭い、河越城の戦いで扇谷上杉軍は大敗、当主朝定は討死、他の連合軍は四散し、河越城奪還の夢は砕かれた。享年22。 ただし、朝定を誰が討ち取ったかなど、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、朝定が病死した可能性も排除できないため、実際の死因は不明であり、連合軍の崩壊の原因を北条軍の奇襲ではなく、朝定の突然の死に求める説もある[4]。 朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。 close

松山城③
サイト名 山城めぐり(兄弟ブログ biglob)
タグ 山城ー武州
投稿日時 2018-09-14 02:00:04

「松山城③」関連ページ一覧

新着記事一覧

<打込み接・布積み(関八州)> 江戸城、小田原城、佐貫城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹...
シロスキーのお城紀行
2022-09-26 01:00:04

中城城 日本100名城 沖縄 路線バスで行く世界遺産5城 5-4


hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
 ◆中城城 三の郭の石積 またかなり間が空いてしまいました。引き続き3月中旬に久々に沖縄、世界遺産5城を2泊3日で路線バスを利用して...
hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
2022-09-25 14:40:05

<打込接・布積み(奥羽・出羽)> 弘前城、盛岡城、仙台城、会津若松城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を日本の北から南まで展開しているお城の写真をお届けしてきましたが、昨日で一応終了...
シロスキーのお城紀行
2022-09-25 02:00:03

讃岐小豆島 星ケ城  西峰と東峰から成る素晴らしい眺望の山城


久太郎の戦国城めぐり
讃岐小豆島 星ケ城 (香川県小豆郡小豆島町安田・星ケ城山) <県指定史跡> <ちょっと小豆島まで行ってきます・②>坂手港から安田館を訪問した後...
久太郎の戦国城めぐり
小豆島の城めぐり
2022-09-25 01:40:03

第439回:江馬氏下館(北飛騨における江馬氏の繁栄を示す城館跡)


こにるのお城訪問記
訪問日:2021年11月江馬氏下館(えまししもやかた)は岐阜県飛騨市にあった城館です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。北飛騨の雄...
こにるのお城訪問記
岐阜県の城郭
2022-09-25 01:20:03
;