東北史跡巡り⑧ ~九戸城 その2~の詳細

東北史跡巡り⑧ ~九戸城 その2~
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記事タイトル 東北史跡巡り⑧ ~九戸城 その2~
概要

①南部信直(作画:ザネリさん) 前回、私が九戸(くのへ)城に到着したところまでを描きました。(前回のBlogはこちらをクリック)今回も、この九戸城について描きたいと思いますが、たった5千の兵で九戸城に立て篭もり、6万5千の豊臣軍と対抗した九戸政実(まさじつ)の乱の話は以前のブログ…… more (「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」)で詳細述べております。ただ、この乱に至る経緯は、九戸政実や秀吉軍の石田三成らの視点を中心に描いています。今回の訪問記では、この九戸城で政実を攻めた南部信直(なんぶのぶなお、以下信直)の視点で描いてみたいと思います。(絵①)彼はこの乱の後、晩年までこの九戸城で過ごしたのです。1.南部家の発祥南部氏は、平安時代末期の前九年・後三年の役で有名な源義家(よしいえ)の弟・義光(よしみつ)を開祖とする甲斐武田家の分派です。甲州(今の山梨県)の南部、富士川の西側一帯が所領だったので「南部」というのです。(地図②)②源平合戦の頃の南部氏所領(現在の南部町)◆ ◇ ◆ ◇③大河ドラマ「獅子の時代」(1980年)右が会津藩士の菅原文太左は最近お亡くなりになった加藤剛脱線しますが、昔大河ドラマの「獅子の時代」を見た私は、幕末の菅原文太扮する会津藩士たちが、会津戦争敗戦後に青森県下北半島に移住させられ、斗南(となみ)藩を建設したと知りました。(写真③)その話の中で斗南とは、「北斗以南の良い土地」という意味で、「南!」であると強調し、激しい寒さであることをネグレクトするような命名話が出て来たのを覚えています。グリーンランドの命名経緯と似ているなあと思ったものです。グリーンランドもアイスランドの首領が、「西に行けば、緑が豊かな土地(グリーンランド)がある。」と入植者を募った時に、さも暖かそうな名前をつけて、極寒の地へいざなったことは有名です。なので、てっきり南部氏についても、「斗南と同じく、また相当厳しい寒冷地にあっても、『ここは南部だ!』的な表現をして頑張っている一族なのだろう。」くらいに思っていました。まさか甲州の南部が彼らの所領だったからとは思ってもみなかったですね。◆ ◇ ◆ ◇話戻しますが、新羅三郎(しんらさぶろう)義光(源義光)から起きた甲斐源氏の一派、南部氏の開祖と言われるのが、南部光行(みつゆき)です。(絵④)この南部光行の絵も、旗が武田菱です。この時期の南部氏は甲州武田氏との縁が深そうです。武田と言えば、後に武田信玄が諸将を震撼させた「武田の騎馬隊」で有名なように甲州馬という名馬の生産でも有名ですね。この南部氏も、この武田氏と同じ甲州で牧場により名馬の生産をしていたと思われます。④南部光行(南部氏の開祖) ※旗が武田菱その後、1189年に奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、南部光行に、この九戸城を含む陸奥の国(岩手・青森県)一帯を与えます。(地図⑤※この辺り諸説あります)南部光行は、名馬の生産管理に関し、かなり高い技術を持っていました。当時馬は、軍備として重要な機材ですから、この生産管理に高い能力を発揮できる武将が重宝された訳です。実は今連載中の「いなげや」に出て来た工藤祐経の工藤氏や曾我氏も馬管理に高い能力を発揮した武将で、盛岡以北に一派が定住しました。(前々回の 「東北史跡巡り⑥ ~厨川柵~」にも陸奥工藤氏の建立した天昌寺の話が出てきます。)奥州藤原氏時代にも、名馬を京の都へ献上していたのですから、南部氏がここの領有を頼朝から任されたのも、元々の名馬の産地を拡大(軍備拡大)して欲しいとの意識があったと想像します。一説には、一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)という「戸」という地名は、南部氏が馬の牧を管理する単位として作ったとの説もあります。この辺り色々と説が出るのは、戦国時代以前の公文書の類が、三戸城と共に焼失してしまったため、良く分かっていないのです。⑤南部氏版図と主な城その説も大変説得力はありますが、各戸が奥州藤原氏時代からあったのではないかと私は想像しています。通説では光行の息子6人は、それぞれ長男から順に一戸氏、三戸氏、八戸氏、七戸氏、四戸氏、九戸氏を継いだようです。何故二戸、五戸、六戸が無いのでしょうね?また、1から順ではないですよね?どなたかお詳しい方お教えください(笑)。本領である甲斐南部領は据え置きのまま、陸奥の国も与えられた南部氏、一部はしばらく甲斐南部領に残りました。光行の三男・実長(さねなが、上記八戸氏の開祖)は、流罪を解かれて佐渡から戻った日蓮を甲斐南部領の身延山へ招いたことから、あの日蓮宗の総本山である久遠寺が、この地にあるということなのです。(写真⑥)⑥身延山久遠寺このような平安末期からの南部氏の流れの中で、その血縁関係の分派から、色々な縁戚武将が出来てしまいました。九戸氏を始めとする上記各戸がつく分派に加え、大浦氏、久慈氏、石川氏、北氏等も分派した縁戚武将です。なので、九戸城に立て籠もった九戸政実も南部氏、包囲軍の中に居た津軽為信(つがる ためのぶ)も、津軽に改名前は大浦為信といい、南部氏の縁戚武将なのです。つまり九戸政実の乱は、ほとんど南部氏内の縁戚争いと言っても過言ではないのです。2.南部信直と津軽為信さて、その南部光行から400年弱の1546年、南部氏中興の祖とされる南部信直は生まれます。彼はまた南部氏縁戚の石川氏の庶子(側室の子)なので、南部氏の血縁者としては、かなり傍流になるのですが、この人が第25代南部家当主になります。先代(第24代)の南部晴政(はるまさ)には男子が出来なかったのです。そこで血縁者の中から優秀な信直を見つけ、晴政の長女の婿となり養嗣子(ようしし、家督相続する養子)として、ここ九戸城より北北西へわずか13kmの三戸城に迎えられるのです。(地図⑤の三戸城写真参照)⑦津軽為信(作画:ザネリさん)このワイルドな感じ。為信のイメージにピッタリですところがこの決定の後、晴政に男子が誕生します。よくあることですが晴政は信直が邪魔になってしまうのです。この構図の代表例は同時代の豊臣秀吉と関白秀次(ひでつぐ)の関係です。秀次は、秀頼が生まれると、秀吉に疎まれ殺されてしまいますが、信直は違います。やはり運も含めて強い漢(おとこ)は生き抜く力があります。ただ、晴政に疎まれる時期は、信直もかなり精神的には辛かったと思います。その辛さに拍車をかけるのが津軽為信です。(絵⑦)為信は、信直の実父を、石川城にて攻め滅ぼしてしまうのです。(地図⑤、⑨参照)同じ南部氏の血縁ながらですよ。しかも工事を装って城攻めをするという騙しに近い方法で実父を自害へ追い込んだのです。晴政にも疎まれ、自分自身の命もいつ無くなるか分からない状況において、縁戚の為信に実父を騙し討ちされた信直。こんなつらい状況でも彼は懸命に明日をつなぎ留めて行くのです。3.南部家お家騒動結局、信直は、先代の晴政との対立を避けるために、養嗣子たる立場を辞退して三戸城から引き下がるのです。ところが、信直が謀反を企んでいると睨んだ晴政は、機会があれば信直を殺害しようとします。身の危険を感じた信直は、他の南部氏の縁戚(八戸氏や北氏)に、支援や仲介してもらうことで、なんとか晴政と和議を結ぶのです。しかし、実子が可愛いのは秀吉も晴政も同じです。やはり、一発触発の状態だったのでしょう。些細な事で晴政が信直に攻め掛かります。⑧南部信直と九戸実親(作画:ザネリさん)信直側は、主に鉄砲で応戦するのですが、晴政を狙わずその馬を射貫き、また当時南部家No.2の九戸実親(さねちか:九戸政実の弟)も、鉄砲で負傷させると、流石に晴政側は撤退します。(絵⑧)しかし、これで身の危険を感じた信直は、八戸氏に匿ってもらうことになります。そうこうするうちに、晴政が病死をします。この辺りから、なんとなく信直の裏攻撃が開始されている感じがします。そして晴政の継承者の実子は、晴政の葬式直後に何者かによって暗殺されるのです。(毒殺との説もあります。)かなり怪しくないですか?事実は良く分かっていません。匿ってもらうまでの信直は常に受け身で、義父・晴政に歯向かうことが出来ない立場を貫いているように見えますが、信直にとって、この晴政とその実子2人の死は、それこそ関白秀次にとって、秀吉と秀頼が亡くなったようなものです。もし、こんな豊臣家のシチュエーションが発生したら、石田三成が黙っていませんよね。同じ様に黙っていなかったのが、南部家No.2の九戸氏です。4.九戸政実との対立&津軽為信との駆け引き九戸氏の長である九戸政実は、南部晴政のNo.2であった弟の実親を南部家の当主に推します。(絵⑧)彼らからすれば、信直は被害者面(づら)しているが裏で汚いことをやっている自己中心的な人物であり、そんな奴にはこの蝦夷(えみし)の国を任せられないというスタンスです。このように南部家No.2の九戸氏との対立を余儀なくされる一方で、信直の頭痛の種は、津軽為信でもあったのです。津軽為信は、信直の実父を石川城で殺害し、津軽地方における南部氏の勢力を弱めると、客将として津軽の抑えとして南部氏が招へいした奥州の貴種・浪岡北畠氏を浪岡城(御所)にて滅ぼしてしまいます。(地図⑨)⑨津軽氏の勃興そして、当時一番の実力者である豊臣秀吉に対し、津軽地方の領有を認めさせてしまえば、「南部信直がどうほざこうとも津軽は俺たちのモノ」と言わんばかりに、津軽為信自ら京へ上洛しようとするのです。最初は船で日本海側から海路を取るも、暴風雨に合い失敗。次に陸路、秋田県側を通って行こうとしますが、これも出羽浅利氏(南部氏と同じ源氏名家)の妨害にあい失敗。最後は「えーい、ままよ。2000人連れての強行突破じゃ!」と南部氏版図を突っ切ろうとしますが、信直にあえなく撃退。そして、しつこくまた秋田県側からチャレンジしますが秋田氏により撃退。最後は、この秋田氏と和睦し、なんとか部下数人を京へ送り込むことに成功。石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上することで、津軽の所領を安堵してもらうのです。凄い執念です(笑)。これに焦った信直。地図⑨を見ても分かるように、南部氏の所領の1/4以上が奪われてしまう事態となり、南部家ご先祖様に顔向けできません。信直も中央政権への工作を開始します。縁のあった前田利家を通じ周旋します。各武将間の私戦を禁じる秀吉の「全国惣無事令」違反として津軽為信を訴えます。これを前田利家には聞き届けられますが、あとは小田原征伐で東上する豊臣秀吉に直々に謁見することで地図⑨の津軽氏版図とされる地域も南部氏版図であると秀吉に認めてもらうために1000の兵を連れて南下するのです。⑩九戸城の二の丸発掘現場から本丸方向を臨む※九戸政実の乱で「撫で斬り」となった二の丸で発掘が進められていましたところが、この1000の兵を連れての信直の行動を津軽為信は察知します。為信慌てて、若干18名の隠密行動で、スタコラ・スタコラと信直1000の行列を追い越し、秀吉が小田原に入るギリギリ一歩手前の沼津にて謁見する事に成功するのです!そこで地図⑨の津軽氏版図の本領安堵を秀吉から直々に取り付けてしまうのです。(*≧∀≦*)一方信直は、予定通り小田原入りした秀吉と謁見します。「おお、信直殿、ここに入るちょっと前にご縁戚の為信殿が来ましての。津軽の本領安堵を願ったので、そこはご一門仲良くやってくだされや。南部氏の版図は安堵いたす。」「ははっ!」と平伏した南部信直。素直に平伏する姿とは裏腹に腹の中は煮えくり返っていたことでしょう。⑪九戸城・二の丸※この広い敷地に食糧や鉄砲・弾薬を小屋を建て、相当量貯め込み始めたとのことですこれ以降300年間、津軽氏版図は津軽藩となって生き残り、南部氏の版図は、この時を持って完全に切り取られてしまったという訳です。5.九戸政実の乱信直、この津軽為信の謀略に負けて、へこんでいる暇はありませんでした。南部氏の本拠である三戸城に帰ってきた信直に反旗を翻したのが、九戸政実です。南部氏の後継者争いは、信直か?九戸実親か?の結論が統一されないうちに、信直がさっさと秀吉という巨大勢力に媚びに行き、後継者のお墨付きを貰ってしまったとの認識なのです。「そのような卑怯な当主に従えるか!」とばかりに、彼らは三戸城の目と鼻の先にある九戸城に食糧や武器・弾薬を貯め込み始めました。(写真⑩、⑪、⑫参照)6.終りに⑫本丸と二の丸の間の空堀※後に南部信直の居城として活用時には水濠にしたようです長くなりましたので続きはまた次回描きます。また冒頭に申し上げた以前のブログ「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」に、続きに近い話が描かれていますので、是非ご笑覧頂ければと存じます。更に「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」については、九戸政実の乱に至る経緯が秀吉や石田三成側の視点で描かれており、南部信直の視点である本稿とは違った楽しみ方が出来ますので、これもお時間があれば是非ご笑覧ください。このように、信直は縁戚武将たちに翻弄され、これらをピシャっと抑えるだけのカリスマ性のある当主ではなかったのが辛いところだったのでしょう。しかし、翻弄されているように見える彼の中にも、1つ芯が通っていたようです。大事な場面では取り巻きが救ってくれていますし、何といっても明治まで続く南部氏の中興の祖となれたのですから。長文ご精読ありがとうございました。次回も是非お読み頂ければ幸いです。<つづく>ザネリさんのリンクをもっと見たい方⇒【ザネリさんのPixivリンクへ】【甲斐南部領】山梨県南巨摩郡南部町【身延山久遠寺】山梨県南巨摩郡身延町身延3567【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内146−7【三戸城】青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下34【石川城】青森県弘前市石川大仏下1−3【浪岡城】青森県青森市浪岡大字浪岡五所14−1 close

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投稿日時 2018-07-29 16:20:02

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