第289回:久々利城(戦国の遺構が良く残る久々利氏の城){付 千村陣屋}の詳細

第289回:久々利城(戦国の遺構が良く残る久々利氏の城){付 千村陣屋}
こにるのお城訪問記
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記事タイトル 第289回:久々利城(戦国の遺構が良く残る久々利氏の城){付 千村陣屋}
概要

訪問日:2016年12月久々利城(くくりじょう)は岐阜県可児市にあったお城です。14世紀後半に土岐康貞が築城したと言われ,子孫が久々利氏を称し長きに渡りこの地を支配しました。戦国時代に入り当時の当主であった久々利頼興は烏峰城(後の金山城)の斎藤正義(妙春)と対立し,1548年 久…… more 々利城に呼び出し謀殺しました。1565年 勢力を強めた織田信長配下の森可成(もりよしなり)に従うことになりましたが,本能寺の変での信長横死後の1583年 森氏に反旗を翻した久々利氏は森可成の子である森長可(もりながよし)に金山城で謀殺されました。その後、長可に攻められた久々利城はあえなく落城し,森氏の城となっていましたが1600年に森氏の転封にともない廃城となりました。江戸時代に入ると関ケ原の戦いで功のあった千村良重(ちむらよししげ)がこの場所に入封。久々利城の根古屋(屋敷のあった場所)とされる現在の可児郷土歴史館付近に屋敷を構えました。良重は元々、木曽義昌に使えていましたが,木曽氏没落後は徳川家康に従った人物です。後に直参旗本のまま徳川御三家である尾張徳川家に附けられ,明治維新までこの地を治める千村氏の祖となりました。千村陣屋は千村氏屋敷跡として市史跡に指定されています。   【左】麓にある可児郷土歴史館。まずはここでお城関係の情報や資料を入手します。この場所は江戸時代の千村陣屋のあった場所ですが後述するので,まずは久々利城に向かいましょう。【右】県道84号線沿いの登山口。迷うことはありません。現地の案内板です,可児市として売り出し中なのか整備の行き届いた城跡で入手したパンフレットはさらに詳細に見所が記載されていました。この図の通り,二本の尾根に跨って縄張りされています。まずは主要部である東側(右)の尾根から登り,ぐるっと上を回って西側(左)尾根に下りてくることにしました。  【左】登山口からすぐの分岐を順路に進まず右側に進路を取ります。分岐には應神天皇若宮八幡宮祠の案内があり,縄張図にも神社マークがあったのですが,現地には散乱した石と写真の應神天皇若宮八幡神社と書かれた石が置かれていました。【右】ここに来た理由は山側を見上げると上から降りてくる竪堀を見ることができるからです。  【左】さて,元に戻りまして上を目指します。急な登りですが距離がありませんので,楽な登山です。【右】削平地に到着。正面は虎口に構えられた土塁であり,その奥に枡形空間が広がっています。  【左】素直に直進せず虎口前で左側に回り込んでみました。やや未整備ですが曲輪の三の丸下に築かれた土塁と横堀と思われる遺構を確認することが出来ます。【右】さて,元に戻りまして。虎口内に侵入しました。左側からは三の丸の切岸上から攻撃を受け,正面に攻撃するためのスペースが復元され,直進できない仕組みとなっています。曲輪自体が中世城郭としてはかなり巨大な枡形空間と言えるでしょう。写真ではわかりにくいので,現地の案内図を載せておきます。  【左】この曲輪内には井戸跡も残っています。【右】振り返ると,守り側の目線。左の柵の内側から虎口に侵入した敵を攻撃します。通路が屈曲している様子がわかります。右側の三の丸の切岸も折れを伴い,多くの確度から敵を狙い打ちできるようになっています。  【左】三の丸に到着。上を見上げると二の丸,本丸が段々に築かれている様子がわかります。【右】さらに上に進むためには,二の丸,本丸の切岸の横に付けられた狭い城道を進む必要があります。常に上方からの攻撃にさらされ,大軍が展開できない仕組みとなっております。  【左】二の丸に到着。 下に先ほどの三の丸。木も伐採され当時の後継を想像しやすいのではないでしょうか。【右】本丸手前。眼下には谷に設けられた腰曲輪。  【左】本丸に到着。【右】本丸からの眺望。下に先ほど登ってきた二の丸と三の丸が段々に築かれている様子が良く見えます。  【左】本丸よりさらに先に進むためには,先ほどの腰曲輪の上部に残された細い土橋を渡る必要があります。【右】この土橋が唯一の連絡通路であることから,非常時には奥に逃げ込んだのかもしれません。  【左】土橋を渡り切り,本丸方面を振り返っています。右側の非常に限定された区間を渡って来ることになります。【右】本丸のさらに奥に築かれた北の丸。かなりの面積があり,主要な曲輪の一つであったことが想像されます。  【左】北の丸の上に最高点があり,見張郭と案内された曲輪があります。【右】なるほど,居住するには狭いスペースで見張り台として機能したと考えるのが妥当でしょう。  【左】見張郭の背後に築かれた堀切。ここから奥は普通の人は中々行かない部分になるのではないでしょうか。細い尾根を断ち切る何本かの堀切と竪堀を確認しながら進んでいきます。【右】これは竪堀。  【左】二本目の堀切。【右】三本目の堀切。  【左】この辺りが尾根の付け根で折り返して西側の尾根に取りつきます。既に未整備エリアでこの辺りは複雑に張り巡らされた堀切や竪堀の中を進みます。案内板で言うと上の方にいます。【右】どうやら無事に西側の尾根に入ったようですので,ここからひたすら直進し降りていきます。  【左】西側の尾根にも何本かの堀切が設けられています。【右】西側尾根の先端付近に築かれた曲輪。かなりの面積があり,区画があることから屋敷が構えられていたと考えられます。  【左】西側の曲輪でも土塁を確認することができました。虎口はどこかわからなかったので,気合で道路まで脱出しました。【右】麓に戻ってきて,少し千村陣屋の名残を見てみましょう。この交差点に案内と石碑があります。下に残された石垣も当時のもののようです。  【左】現在は宅地化されわずかな遺構しか残りませんが,案内によると東西 300m 南北270m もあり城郭といって過言でない造りであったと。【左】現在も可児郷土歴史館の周辺に石垣が残されています。  【左】この花壇も当時の石垣を利用したものであろうか?後で調べたところ歴史館の南側の道に石垣は多く残されているそうで,見損ねました。近くに立ち寄った際にはまた行ってみようかと思います。【右】八劔神社前の屈曲した道路はいかにも城下の道という感じです。  【左】県道を挟んだ場所には下屋敷に設けられた回遊庭園である春秋園が残っています。1756年 第6代 千村政成が花木園を造り,1828年 第9代 千村仲雄(ちむらなかお)が庭園にして春秋園と名付けたそうです。【右】付近には千村氏の菩提寺である東禅寺があり,歴代の千村家墓所があります。戦国の城とは?土の城とは?整備も良好で非常にわかりやすく感じる城跡ではないでしょうか。マニアックなお城・歴史ファンはグルっと西尾根まで進んで,千村氏の江戸時代の城下町の名残も楽しんでください。大きな地図で表示 お城巡り ブログランキングへ にほんブログ村FC2 Blog Ranking close

第289回:久々利城(戦国の遺構が良く残る久々利氏の城){付 千村陣屋}
サイト名 こにるのお城訪問記
タグ 岐阜県の城郭
投稿日時 2018-07-08 01:00:01

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