鹿児島・一宇治城 ~ 島津貴久とザビエル対面の城の詳細

鹿児島・一宇治城 ~ 島津貴久とザビエル対面の城
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記事タイトル 鹿児島・一宇治城 ~ 島津貴久とザビエル対面の城
概要

城巡りアーカイブス、南九州シリーズは今回から鹿児島県へ。 鹿児島城も行ったのですが、写真も少ないし、他の方もよくご紹介されているでしょうから、そちらは飛ばす事にしました。 今回は鹿児島県日置市伊集院にある一宇治城跡です。ここは、・薩摩国内で重きをなし、最も一族…… more が繁栄した伊集院氏発祥の地・島津貴久がフランシスコ=ザビエルと面会し、領内での布教を許可した対面の地として著名なお城であります。 事前調査が不足していた自分は、ザビエルの件は知らないまま登城し、そこでその件を知ったのでした(笑)そもそも、伊集院氏発祥の地、というだけで私には十分登城意義のあるお城でしたので。十分な整備感のある中世山城跡を堪能できる城跡でした。 〇一宇治城 城は現在、城山公園として整備され、大きな駐車場も完備しています。駐車場にある石碑。チラッと右手に見える階段を上っていくのです。 段々に曲輪が並んでいるのがわかる一枚。期待感が高まります。これはほんの一部。最大規模時は大小30あまりの曲輪が存在していたと言います。 こんな感じの道を上っていきます。 曲輪を一つ一つ紹介したいのではなく・・・。南九州のお城の「郭」「曲輪」のネーミングの特徴をご紹介したかったのです。「~郭」「~丸」ではなく、「~城」という名が一つ一つの曲輪についているのです。これは恐らく曲輪が連続・規則的に配置されているのではなく、順次造成されていったこと、シラス台地特有の曲輪の造り方と無縁ではないでしょう。 山城といえば、大事な井戸跡。これだけの規模のお城ですから、水の用もかなりあったはず。  どんどん上層階に向かいます。 なかなか一つ一つの曲輪の規模も大きいものです。整備感もよいですね。 空堀跡に見えますが、実はこの真ん中の部分は井戸跡です。案内板には「古い井戸跡」とありましたが。 腰曲輪も造りがきれいです。保存状況も。 本丸にあたる「神明城」にある、F=ザビエル面会の碑。異説もあるのですが、ここ一宇治城の最高所、島津貴久の居館があったここで、ザビエルと面会したそうです。 神明城の案内板は他の曲輪と違って内容も板も立派。 城の案内板にやっとたどり着きました。 最高所、144mの神明城。なかなか広い平坦地でもあります。 見晴らしもいいです。伊集院の市街地が一望できます。 下城しながら。曲輪の配置と段々ぶりがなかなか見事ではありませんか。 腰曲輪も様々な規模のものがありました。この右下が一番最初の石碑がある駐車場になります。ここからの見晴らしもなかなかのものがあります。自分の影が映り込んでしまいましたが(笑) いかがでしょうか??中世山城とはどんなものか堪能できる城跡であります。しかも、山城とはいえ、薩摩国の中央を押さえ、島津宗家の拠点とも一時期なっていたお城跡です。その規模たるや必見の価値があります。今、鹿児島は「〇〇どん」フィーバーの真っ最中でしょうから、足を運ばれる方も多いでしょう。その際は、鹿児島市内だけでなく、維新回転の歴史だけでなく、この歴史のあるお城跡をぜひ、訪れてみてください。このお城は、期待感を裏切りませんよ~ 〇一宇治城とは? 薩摩国で繁栄した伊集院氏の発祥の地であります。城は伊集院市街地を一望できる、通称「鉄丸山」と呼ばれる標高144mの独立峰全体を城域とし、その最高所に「神明城」と呼ばれる本丸にあたる曲輪を置いています。その神明城を軸に、大小30ほどの曲輪が配置されていますが、この地方の城の特徴でもあるように、神明城周辺の曲輪を除けば各々が独立したように配置されており、これもある意味「群郭式」の山城と呼べるかもしれません。今でも主に8つ程度の主曲輪、他に複数の腰曲輪は、明確に遺構を巡って見る事ができます。だいぶ高低差は少なくなってしまってはいるものの、土塁や空堀、井戸跡など遺構の保存状況は大変良く、整備はされていますが、遺構を損なう感じではなく、非常に優れた遺構保存と公園整備のバランスだと思いました。 城は建久年間、といいますから鎌倉時代初期に築城されたと言います。こちらは「古伊集院氏」とでもいいましょうか、歌人で有名な紀貫之の子孫である紀時清が、郡司として下向し、支配するにあたって築城したものです。紀姓系伊集院氏は、その後4代130年あまりこの地を支配しました。 次いで、この一宇治城のあるじとなったのは、島津宗家第2代・忠時の七男・忠経の四男・俊忠です。この俊忠が、薩摩国日置郡伊集院の地頭職を得、この地に入ったのです。しかし、「伊集院」の氏姓を名乗ったのはその子・久兼からとも言われていますが。この「新伊集院氏」の歴代をカウントする際は、地頭職を得て入部した俊忠を初代としていますので、そこに沿っていきたいと思います。ここから、島津一門としての伊集院氏がスタートします。 伊集院氏は早くから枝分かれした一門であり、この伊集院という地理的な優位性もあったか、同じような一門の中では最も多くの支流一族を輩出しています。早期からの実力者集団でもあったことから、島津宗家とはだんだん微妙な関係になっていきました。南北朝の争乱期に入ると、そのバランスの軋みが一気に表面化します。 伊集院5代・忠国は当初は島津宗家5代・貞久と行動を共にして北朝・足利尊氏方として働いていました。ところが、1337(延元2・建武4)年、懐良親王が征西将軍に任命され、先遣隊の三条泰季が薩摩入りするや忠国は南朝方に鞍替えし一宇治城で挙兵します。薩摩国内では南朝につく豪族はいましたが、島津一門で南朝方となったのは伊集院一族だけです。忠国ら南朝勢はまず伊作を目指し、領主・伊作島津氏の久長と合戦に及びます。 忠国の挙兵を聞いた宗家・貞久は当時京都で戦っていましたが、急遽、川上頼久や久長の子・宗久らを帰国させ対処にあたらせています。忠国はその後、大隅国での有力な南朝方であった肝付氏と連携し、薩摩国内で激しい戦いを続けていきます。1340(興国元・暦応3)年、貞久が薩摩に帰国し、腰を据えて忠国討伐に動きます。この時、忠国は一時期一宇治城を放棄しています。1342(興国3・康永元)年に懐良親王が薩摩に到着すると、忠国は諸勢力を糾合し反撃を開始。薩摩を離れていた貞久は急遽、また帰国し、親王や忠国らが籠城した谷山城を攻め立てますが、逆に忠国らの反撃に遭って嫡男・氏久が負傷するなど、忠国ら南朝方の優位のまま推移していきます。1351(観応2・正平6)年、宗家の貞久・氏久は南朝方に降伏。この頃には忠国ら伊集院一族も島津宗家に協力していたようです。 忠国やその子で伊集院6代・久氏は、島津宗家との関係を強化する方向に舵を切っていきます。島津宗家6代(奥州家初代)氏久の妻は忠国の娘。そして、その氏久の娘にして宗家7代・元久の妹は、伊集院7代・頼久の妻。久氏は、九州探題・今川了俊と氏久が仲たがいをして反旗を翻した際、了俊に加勢を誘われますが、その誘いを断って宗家に従って出陣。勝利をもたらしています。こうして、伊集院氏は島津宗家の中に深く根を張り、いよいよその影響力、重鎮度合いを深めていくのです。 伊集院7代・頼久は宗家7代元久の妹婿であり、事実上家中の筆頭家老であり、元久が上洛して将軍・足利義持に謁見した際にはその献上品が天下の話題となったと言われるほど、その差配ぶりは並ぶ者なき状態となっていました。1411(応永18)年、薩摩国で渋谷一族が元久に不満を持つ勢力を糾合して挙兵、反乱に及びますが、その最中に元久が病に倒れてしまいます。元久の子はすでに出家しており、後継者がいませんでした。元久の弟・久豊は、日向国の伊東氏に対抗するため、日向・大隅国境に出張っており、伊東氏から妻もめとっていました。そのため、当主・元久とは不仲でしたから、後継に名が上がることもありませんでした。これに頼久が付け入る事になります。 彼は自身の子・初千代丸(後の煕久)を元久に後継とするよう勧めました。元久が死去すると頼久は「元久公のご遺言で後継は初千代丸」と公表。激怒した久豊は急遽、鹿児島に帰還。元久の葬儀中に煕久側から位牌を奪って葬儀を遂行、自身が宗家8代を継ぎます。 面目を潰され収まらないのは頼久。1413(応永20)年、久豊が渋谷氏討伐のため鹿児島を空けた隙を衝いて反旗を翻し挙兵。久豊の拠点・清水城を陥落させます。その後、この「伊集院頼久の乱」(そのまんまの名前ですね)と呼ばれる乱は、1417(応永24)年まで続くことになります。最終的には、「伊集院の地はそのまま伊集院氏が知行する」「久豊の後妻に頼久の娘を迎える」「頼久は家督を煕久に譲って隠居する」ことで決着します。もともと、頼久と久豊は従兄弟。お互いがそれなりに折れる事で仕舞いをつけたのでしょう。 先の決着の結果を見れば、伊集院氏がすでに島津宗家の中に幾重にもその勢力を扶植していることは想像に難くありません。例え叛旗を翻しても、所領を奪われる事もなく、さらに血のつながりは濃くなっていくようです。伊集院8代となった煕久。この煕久が事実上、「一宇治城の主としての伊集院氏」の最後の当主となってしまいました。 煕久は、久豊が亡くなってその子・忠国(宗家9代・母は伊東氏)が宗家を継いだ際、もともと伊集院氏の所領であった石谷(もとは久豊の後妻となった頼久の娘の化粧料として久豊方に贈られた土地であった)の地が、町田高久に与えられた事に不満を持ちました。 煕久は1449(宝徳元)年、高久を一宇治城に招きます。そして、城下の妙円寺の山門にて高久主従を襲撃、殺害してしまいました。この煕久の傲慢なふるまいに対し、忠国は激怒。1450(宝徳2)年3月、忠国は一宇治城の煕久を攻め立て、煕久は肥後へ逃亡。一宇治城はこの時をもって島津宗家の持ち城となりました。忠国は一宇治城を改修し、宗家の有力な支城として整備し、国内の動揺を鎮めることになります。 ・・・・・ 一宇治城が再び歴史上に浮かび上がってくるのが、島津忠良(1492~1568)、貴久(1514~1571)父子の時代。伊作島津氏から宗家を継いでいた貴久は、伊作を出てここ一宇治城に拠点を構えました。1536(天文5)年3月の事です。一宇治城は伊集院氏の城から、島津宗家の属城を経て、本拠地となったのです。 その貴久に、鹿児島での布教の許可を得るべく、フランシスコ・ザビエルがここ一宇治城にやってきたのは1549(天文18)年9月のこと。その対面の場が、城中・神明城であったのは前述の通りです。海を越えて苦難の旅路の果てに日本にやってきたザビエルの熱意を汲んだのか、はたまた、南蛮貿易から得られるかもしれない権益を計ったか。島津中興の英主と呼んでよい貴久は、ザビエルの布教を許可しました。当時の島津宗家はようやく薩摩一国をまとめ上げるところまで来たばかり。国内外で諸事多難でありました。だから実はあまり深く考えていなかったかも・・・。しかし、何はともあれ、これこそが日本国内で初めて、正式にキリスト教の布教が認められた瞬間だったのです。 貴久は翌年にはいよいよ鹿児島に進出。居城も鹿児島の内城に移しましたので、一宇治城はまた、宗家の属城に戻ったのです。ザビエルの対面が数ヶ月ずれていたら対面の場は一宇治城ではなかったかもしれませんね。 ・・・・・ さて、薩摩を追われた伊集院一族について触れておきましょう。先に述べた通り、多くの支族を輩出している一門です。中でも、伊作島津氏の忠良、その子で宗家を継いだ貴久、義久、義弘と歴代当主に仕えた一族は著名です。それが忠朗、忠倉、忠棟です。先に述べた煕久が一宇治城を追われた時、その弟で頼久の四男・倍久は肥後には行かず伊作の島津家に仕えました。これが運の開き始めになります。この倍久の孫が忠朗です。彼は伊作島津家が産んだ英主・忠良、島津宗家中興の英主・貴久の元で家老を務め、最晩年は筆頭の地位にありました。伊作家がそのまま宗家に入り込む形になったので、忠朗は「伊作家の家老」から「島津宗家の筆頭家老」になったのです。彼の子、忠倉もその地位を引き継ぎ、貴久・義久に仕えました。この忠倉の子が、都之城のところで触れた忠棟(1541?~1599)です。この伊集院3代は、まさに伊作家が島津宗家に入り、島津宗家そのものがまさに昇竜の勢いで拡大していく中で、その重要なポジションを担い、主君を支え続けました。忠棟や子の忠真の最期が最期であっただけに、その評価は割れるところでしょうが、島津宗家の九州制圧に多大な貢献をした事は間違いありません。 また、煕久からの直系の伊集院氏については、煕久の孫・久雄の代に島津氏への帰参を果たしており、後に義弘の子・家久(忠恒。初代薩摩藩主)から養子を迎えてその一門に連なっております。 〇行き方 南九州道(西回り道)の伊集院インターを下ります。出口で県道に合流しますので、出口交差点は左折します。後は基本直進していれば城山公園への登り口を左手に見つけることができます。信号を6つぐらい通り過ぎるでしょうか。極めて迷わない、行きやすいお城跡です。一方、電車でもJR鹿児島本線・伊集院駅下車で、徒歩10分ぐらいで城山公園まで行けます。こちらも非常に接近しやすいお城跡です。 鹿児島方面に行かれた際はぜひ、登城してみてください! 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投稿日時 2018-05-17 01:00:09

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