向羽黒山城 [1/3] 会津の戦国大名 蘆名氏の誇る巨大山城跡の詳細

向羽黒山城 [1/3] 会津の戦国大名 蘆名氏の誇る巨大山城跡
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記事タイトル 向羽黒山城 [1/3] 会津の戦国大名 蘆名氏の誇る巨大山城跡
概要

向羽黒山城 (むかいはぐろやまじょう) は、会津の戦国大名 蘆名氏が築いた東北最大級の巨大山城。蘆名氏の全盛期を築いた16代当主 蘆名盛氏 (あしなもりうじ) は8年もの歳月をかけて巨大城郭を築いたが、後継者が相次いで早死。蘆名氏は盛氏死後わずか数年で摺上原の合戦で伊達政宗に大敗…… more し滅亡してしまう。蘆名氏の後に会津領主となった伊達氏・蒲生氏・上杉氏らも向羽黒山城を改修し維持されたが、上杉景勝の米沢転封で廃城となった。羽黒山の向かいにある岩崎山の山頂を中心とする東西1.4km・南北1.5kmもの広大な城跡で、車道等で一部破壊されているものの、廃城から400年経った今も良好な中世山城遺構が全域に残る。 <基本データ> ●名称:向羽黒山城 (Wikipedia) ●所在:福島県大沼郡 (地図) ●城主:蘆名盛氏 / 伊達政宗 / 蒲生氏郷 / 上杉景勝 ●築城:永禄十一年 (1568) ●遺構:曲輪、堀切、竪堀、土塁、切岸、虎口跡 ●情報:続日本百名城 No.111 (一覧) 訪問時期:2017年5月 向羽黒山城 訪問記 − 其の一、二、三。 <訪問記> 向羽黒山城は全域に車道が通り、車で一周出来てしまう。中腹にある三ノ丸近くの駐車場から散策するのが定番コースのようだ。こちらは岩崎山北側の入口。説明板と絵図面が建っているので見ていこう。 向羽黒山城跡 説明板。戦国大名 蘆名盛氏は、隠居に伴い、それまでの平地の拠点 黒川城から山中の向羽黒山城を築いた。白凰三山の一つ「羽黒山」の「向かい」にある岩崎山に築かれたことから「向羽黒山」城と呼ばれる。蘆名氏滅亡後も伊達・蒲生・上杉ら錚々たる戦国大名らが向羽黒山城を改修し詰城として維持していたようだ。後半の文字がかすれてしまって読めないのが残念。 登山口にある復元鳥瞰図。山全体が要塞化していることが分かる。古絵図の類は残っていないことから、遺構を元に描いている。 復元鳥瞰図 部分をアップ。左下が北で、山地は右下へと伸びる。 城内には縄張図を描いた案内板が無かったため、リーフレットに掲載されている縄張図を引用。(リーフレットのPDFは会津美里町観光ポータルサイトからダウンロードできる)。こちらは上が北。上から伸びてくる車道(色が塗ってある線)の中央あたり、「二西曲輪群」と書かれているあたりが駐車場だ。細かく描かれている割に絵が小さく見づらいが、現地ではこの図を参考に散策した。 二西曲輪の駐車場へ。かつてここにも曲輪があったのかもしれないが、車道・駐車場ともに完全に舗装され全く分からない。 では駐車場から少し北(来た道)に戻って、上町大手口 および 伝 盛氏屋敷跡 を見に行ってみよう。説明板が見えるが、これはこの左側にある三の曲輪のもの。後で見てみよう。 車道の右側に深く長く掘られていた、空堀。車道を造成する際に一部埋められたようだ。 道が左に曲がるあたりから、右奥へ入れば、伝盛氏屋敷跡 方面へ。説明板が建っているが、それは右奥の丘の上に建つ「羽黒神社(出世稲荷神社)」のものだった。 向羽黒山城跡全体図。せっかく細かい縄張りが描いてあるのだが、その上に色塗りで「◯◯整備地区」と描かれていて、ほとんど見えない。岩崎山と尾根続きの羽黒山の南部に渡って巨大な城が築かれていたことは読み取れる。今いるのは上の「北曲輪群」(紫) とその左の「三曲輪群」(緑) の間あたり。 では伝 盛氏屋敷跡へ。大手の一つとされる「上町大手口」へ通じる道の途中にある。 5月でこの状態。よく見ると左側に大きな空掘がある。 大きな空堀の向こう側に土塁に囲まれた場所が見える。そこが伝 盛氏屋敷跡。今居るこちら側は北曲輪。上町大手口が登城して北曲輪を通るあたりで、堀切の向こう側に巨大な城主 盛氏の屋敷があった、というわけだ(ただし「伝」)。 土塁に囲まれている様がよく分かる構図。 伝盛氏屋敷の周囲に掘られている空堀。複雑に折れ曲げられている場所もあった。横矢掛かり。先の鳥瞰図にも、盛氏屋敷の上に折れ曲がる空掘が描かれている。 北曲輪(右側)の外側にも堀切・切岸が築かれ、山麓からの攻撃に備えている。 北曲輪と山麓とを結ぶ箇所には、枡形虎口が築かれていた。この下には十日町大手口があるのだが、道がほぼ失われていて斜面を降りることは難しい状態だった。 伝 盛氏屋敷 へ入ってみた。広大な敷地の周囲を、高い土塁がガッチリ囲んでいる。中は草ぼうぼうのため土塁の上まで。発掘調査はされているのだろうか。 ではまた車道まで戻ってきて、次は三の曲輪へ行ってみよう。この案内板と管理棟の間の道を奥へ。 向羽黒山城 三の丸跡 説明板。向羽黒山城では説明板により「◯の丸」という呼び方と「◯の曲輪」という呼び方がある。三の曲輪は馬の訓練場(馬場)として造営されており、西側の眺望が良いため望楼や指揮陣屋が築かれていたそうだ。 三の丸跡。入ってくると反対側にひっそり建っている標柱。 こちらが向羽黒山城 三の曲輪。なだらかな斜面になっているが、細長い削平地を何段か造っていたのだろうか。周囲の木々も伐採され、今も眺望が良い。 三の曲輪から見る城下 西方。平野にポツンと見える小さな小山は「丸山」。往時は砦の一つでもありそうな立地だ。 では三の曲輪から更に奥へ。城内はハイキングコースとして整備されていることから、各曲輪群を繋ぐ道もそこそこ整備されている。 三の曲輪のやや南側にある「げんぺ沼」。当時は貴重な水源だったのだろうか。 げんぺ沼から石段を通って上へあがると、最初の駐車場へ戻る。 では三の曲輪から、見所の一つである「二の曲輪下の虎口」を目指そう。城内は迷路のようにあちこちに道が伸びていて、また案内表示も余り多くは無い。迷わないように常に自分が今何処に居るのか、地図とニラメッコして確認しながら散策しよう。 藪に囲まれた細い通路を通って二の曲輪虎口を目指す。 二の曲輪下の虎口へ到着。右の斜面上が二の曲輪。左の凹部が食い違い虎口になっている。胡口の内部には巨石が積み上げられていたようだ。ここは虎口の内側にあたり、左奥へ出たところに巨大堀切と土橋がある。二の曲輪へすぐに上がらず、虎口を見に行ってみよう。 虎口内部へ。左右ともに高い土塁(右側は切岸)で囲まれ見通しが悪くされている。 虎口外側から。左奥が二の曲輪だが、道は右側に折れ曲がっている。かつてはこの土塁の間に城門が建っていたのだろう。土塁は左右ともに石垣造りだったのかもしれない。 虎口の外側は空掘が築かれ、土橋が伸びている。 土橋の上から空堀を見る。今も深い堀が訪れたものを圧倒している。 >> 向羽黒山城 [2/3] へ続く。<< 訪問時期:2017年5月 撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF14mm – – – – – – – – ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^) 投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね! ページの一番上に戻る close

向羽黒山城 [1/3] 会津の戦国大名 蘆名氏の誇る巨大山城跡
サイト名 城めぐりチャンネル
タグ お城 続・日本100名城
投稿日時 2017-08-05 03:20:00

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