(続)裏鬼門の呪いは解けたのか?「明石城跡」の詳細

(続)裏鬼門の呪いは解けたのか?「明石城跡」
「高天原の縁側日記」
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記事タイトル (続)裏鬼門の呪いは解けたのか?「明石城跡」
概要

前回、写真が多過ぎて、選ぶのに苦労したばかりか、思い出話が過ぎまい、歴史ブログもとしては、一寸な~と思われた方々も多かったのでは無いでしょうか?その分今日はしっかり生きますよ~(^^)bさて、明石城が造られる始めた、1617年(元和3年)は1615年の大阪夏の陣も終わり、徳川将軍…… more 家にとっては、戦後処理を考えた大名の転封が非常に多く行われた時期になります。明石城も外様西国大名の抑えとして、譜代大名が次々に転封されています。もうひとつ西に有る姫路城との二段構えに成りますね。明石城(あかしじょう)は、兵庫県明石市に在り、明石公園として整備されています。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれ、別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)又は錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれています。其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。 絶賛ランキング参加中!四つのバナータグを「 ぽちっと」クリックして応援お願いします。|o´艸)。oO(Thank you)。バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。そこで慌てないでくださいね~!有難いことに現在、市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰でランキングTOP10にINしておりますので、「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。【江戸時代の説明】1617年(元和3年)信濃松本より明石へ転封となった小笠原忠真は、明石城の西方明石川河口西岸にあった船上城に入城しします。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年2代将軍徳川秀忠より築城命令されました。当時姫路城の城主であった本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたります)、築城から町割りまで行ったようです。当初三ヵ所が検討されたが、人丸山(赤松山)には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に決定されました。徳川秀忠は旗本の都筑為政、村上吉正、建部政長らを普請奉行として派遣するとともに、築城費として銀一千貫を支給したと言われます。人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始されました。このとき天守は台石まで積まれましたが結局建てられませんでした。本丸を中心に配して、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられました。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められました。本丸の西南に天守台の広さは約152坪有ります。広さから推察すると5重規模相当の天守が築かれる予定でしたが、天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設されました。『日本城郭大系』によると「坤櫓が天守の代用となっている」となっていると記載されています。4基のうち南側の2棟、すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されています。巽櫓・坤櫓の棟(破風)の方向は実際とは違っています。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)としました。北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めています。艮櫓(うしとらやぐら)は神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材とするため解体利用されました。築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されています。平成15年、三の丸に「武蔵の庭園」を整備し一般公開してます。【歴代城主の皆さん(転封が多すぎて記憶に残らないかも)】苦心して明石城を築城した小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となります。翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城しましたが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城しますが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封してしまいます。その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めました。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けています。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城します。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になっています。僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったのですが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となりました(やっと平穏な日々)。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われました。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となっています。【明石城は裏鬼門?】鬼門(きもん)とは、北東(「艮」うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にあります。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われるのです。私が住む神戸北区から見ると正に南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)に成りそうです(笑)。【最後に!】1617年(元和3年) 鳥取藩の町人が日本海に浮かぶ竹島を発見。いつも応援、ありがとうございます(^人^)。歴史って本当に面白いですよね~!今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・Blogramバナー・FC2ブログランキングバナーを「ぽちぽち」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。⏬ close

(続)裏鬼門の呪いは解けたのか?「明石城跡」
サイト名 「高天原の縁側日記」
タグ 『城巡り』
投稿日時 2017-07-28 17:40:02

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