福山城 「12」 人質櫓跡~鐘櫓(鐘撞堂)の詳細

福山城 「12」 人質櫓跡~鐘櫓(鐘撞堂)
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記事タイトル 福山城 「12」 人質櫓跡~鐘櫓(鐘撞堂)
概要

 福山城の訪城記、福山城 「11」の続きです。  前回は棗門の変遷を見ていきました。 その12では本丸西側の人質櫓跡と、鐘櫓を見ていきます。   ↓現在地は黒矢印のところ。  本丸西側の多聞…… more 櫓の石垣に沿って南進して行きます。    多聞櫓の石垣には2カ所で合坂が設けられていた。 ↑の図の黒矢印が撮影アングル。 もうちょっと「Vの字」を意識して撮影すればよかったな。。    石垣に沿ってさらに南進すると、合坂の少し南側にある大木を境に多聞櫓の石垣は無くなる。 本丸西側の石垣は、写真の左手の辺りで西側(↑の図で言うと12番の方向)に折れる形になるが、 城内側の石垣は明治~昭和期に崩されてしまったらしい。    その折れ曲がり部分から先程見た石垣を外側から見てみる。 なかなか良い眺め。 ここまで、多聞櫓が建っていたと紹介してきた本丸西側の石垣ですが、 築城当初は多聞櫓ではなく土塀が乗せられていたようです。 ※正保城絵図参照    ↑の写真の撮影場所とほぼ同じ所から西側を見ると、いかにもな石垣が見える。 往時、この石垣には「人質櫓」と呼ばれる2重櫓が建っていたらしいが、 写真を見ても分かるように、かなり改変されているようす。    左側(南側)から見るとこんな感じ。 櫓跡はかなり狭いスペースになっている。  ちなみに、人質櫓は神辺城から移築されたと伝わる櫓の1つ。 「人質櫓」というこの物騒な名称は、福山藩で人質を取る事は考えにくいので 神辺城時代の呼称がそのまま引き継がれたと考えられているとのこと。 ということは、木材を一部転用した「移築」と言うよりは 神辺城での姿を留めた「移築」だった可能性が高いのかもね。    本丸より一段高い人質櫓跡からは周囲がよく見渡せる。 写真は東側の眺望。 正面が前回出てきた棗門から続く本丸西側の石垣で、下の曲輪が二の丸上段。 人質櫓が二の丸上段に突出した位置に建てられていた事が分かる。    この突出した部分を二の丸上段から見ると、こんな感じ。 横矢掛けの部分から推定すると、かつての人質櫓台は赤線のラインで存在していたと思われます。 櫓台上部の東半分が削られた形ですね。    再び櫓跡からの眺望、今度は南側。 往時は人質櫓の南側にも多聞櫓が続いていたが、その櫓台の規模は半分程に削られてしまっている。    先程から見ている12番の人質櫓が建つ部分は 周囲の石垣が撤去・半減される等、他と比べてかなり改変の激しい場所だが、 これは、戦前、人質櫓跡付近に「招魂社」が建てられた事に関連する。  この招魂社は、もともと明治元年に福山藩最後の藩主「阿部正桓」が 箱館戦争等での戦死者の霊を祀るため、市内別所に創建したものだったが、 明治26年に人質櫓跡付近に遷座され、そのとき周囲の石垣が改変されたということらしい。  図の黒矢印は↓の写真の撮影アングル。  もうちょっと引きで見た方が解りやすいんだけど、 本丸から突出したこの場所は、小さなお社を置くには丁度いいスペースだったのだろうと思う。 石垣が改変されちゃったのは残念だけどね。    ↑の写真の撮影場所の左手(南側)はこうなっている。 現在は石垣が凹状になっているこの場所は、かつて渡櫓門が建つ枡形状の虎口になっていたという。 ここの話は次回書くので飛ばします。  で、左上にちらっと見えている白漆喰の建物が↓これ。  L字型の櫓に望楼がぽつんと乗った奇妙な外観をしている、 この建物がタイトルにもある「鐘櫓」です。    「築城当時より城下や近隣諸村に”時の鐘”をつげた遺構で、 江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。 当初は杮ぶきか桧皮ぶきであったが、明治以後荒廃が激しく たびたびの補修のため原形をとどめない状況であった。 昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。 城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく貴重な文化財である。」  鐘櫓前の説明板にはこう記されている。 「築城当時より」って事は、藩主が本丸御殿で生活していた水野時代も こんな至近距離で鐘の音が響いていたってこと?うるさくない?ってのが率直な感想。笑 あと、当初は杮葺か桧皮葺だったのに、 「昭和54年銅板ぶきとし旧規に復した」って言うのはどういう事なのだろう。    この鐘は現在でも1日4回「全自動」で鳴らされているらしい。 「午前6時・夜10時」ってのはどうなんだ?と思ったけど、 これは、本丸の開閉門時間らしいです。 それなら納得。笑  この写真を撮ったのは11時頃だったんだけど、 正午頃も福山駅構内に居たから、どんな音なのか聴いておけばよかった。    南側から見た鐘櫓。 「備後歴史探訪倶楽部」様の鐘櫓のページによると、 現在、鐘櫓と呼ばれるこの建物は元々は多聞櫓の一部で、 2層目の望楼部は「鐘撞堂」と呼ばれていたらしい。 明治期に北・西側の多聞櫓が撤去され、鐘撞堂が乗る部分のみが残される事になったため 現在見られる奇妙な形状になったとのこと。    東側から見ると↑こうなる。 木が邪魔。  廃城後、鐘櫓は放置されていたが、明治30年から「時鐘人」(じしょうにん)と呼ばれる鐘打ち係が常駐し、 昭和31年まで時の鐘が鳴らされていたらしい。 このとき、時鐘人の住居(管理人室のような感じか)仕様に内部が改変され、 外部にも新たに建物が増築されるなど、原形を留めない状況になってしまったという。  時鐘制が廃止された昭和31年以降は、またまた放置され荒廃が進んでいたが、 昭和54年になって修復工事が行われる事になる。 が、本来の姿は分からなくなっているので模擬的な修復がされ、 杮か檜皮葺だった屋根も銅板葺に替えられた と。 おおまかな流れとしてはこんな感じかな。  現在の鐘櫓は空襲での焼失も免れた「一応の」現存遺構だけど、 上記の通り、形状や外観は模擬、良くて復興レベルって事になる。 でも、基礎の部分はそのまま残っているんだから、福山城では貴重な遺構だと思う。    二の丸上段、西側から見るとこんな感じ。 本丸からだと「へなちょこ~」な外観だけど、こっちから見ると悪くないね。 望楼部はごちゃごちゃしてるんだけど、窓と言うか穴が格子状に沢山開けられていて 鐘の音が周囲によく響き渡るような構造になっている。 その下には腕木庇が付いていて、3重櫓と言えなくもないけど、 往時からこの形状だったのかどうかは分からないから、何とも言えない。  それで、現地の説明板では築城当時から存在したような書き方がされているけど、 初期の絵図に鐘撞堂は描かれておらず、文献に名前が見られるのも阿部期になってからの事なので、 鐘撞堂が設けられたのは藩主の住まいが三の丸の御屋形に移ってからではないかとのこと。 そりゃそうだよね~。 こんな至近距離で「ゴーンゴン」鳴ってたらうるさいもん。    かつて鐘撞堂の西側に続いていた多聞櫓跡から見たところ。 右奥のは筋鉄御門。 西側の模擬多聞櫓は壁面が剥がれいたり、庇が桟瓦だったりで「チープ」なつくり。  で、「備後歴史探訪倶楽部」様の鐘櫓のページによると、 鐘撞堂に据えられていた鐘の大きさは「幅2尺5寸・高さ4尺5寸」 mに直すと、「幅75cm、高さ1.3m」と、梵鐘としては小ぶりなサイズだったらしい。 現地の説明板には「城下や近隣諸村に”時の鐘”をつげた」とあったけど、 この鐘の音はどのくらいの所まで届くものなのだろうか。   ってことで、ちょっと調べてみた。 「梵鐘 どこまで聞こえる」でググってみると、参考になりそうな記事がいくつか出てきた↓  「「どこまで聞こえるか」プロジェクト 三井寺の鐘1.4キロ先まで 滋賀」 産経ニュース 大津市「三井寺」の梵鐘の音がどこまで聞こえているかを調査した地元グループの活動を伝える記事。 梵鐘は銅鋳製で高さは約2m、幅は約1.25m。 鐘の音が響いた範囲は境内から半径600m以内が中心で、最も遠い地点は1.4km先だったという。 ただ、近年は三井寺周辺の都市開発などの影響で、鐘の音は遠くへ届きにくくなっているらしい。   「戦国の城に響く鐘の音」 木津の文化財と緑を守る会 様 京都府木津川市、標高141mの山城「鹿背山城」で行われた、『狼煙と鐘の大実験』という 「鹿背山城で有事の際に鐘を鳴らした場合、その音は果たしてどこまで届くのか?」を調査した記事。 使用した鐘は高さ約35cm、半鐘サイズの小ぶりなもの。 鹿背山城の山頂から半鐘を鳴らした結果、最大で2km程度まで鐘の音は届いたが、 それ以下の距離でも地形によっては麓の集落でさえ聞こえない場所が多かったという。   「お寺の鐘を100mから落下させた時、鐘の音が届く距離は??m」 トリビアの種 懐かしの「トリビアの泉」です。笑 もちろん、参考にするのはお題の検証結果ではなく、 実験前に行われた、普通に撞木で突いた場合にどこまで鐘の音が届くのかを調べたもの。 使用した梵鐘は青銅製で高さは約1.5m、重さは700kg。 お寺の鐘はこのサイズが一般的らしい。 実験場所は音を遮る建物が一切無い田園地帯で、最大距離は1.08kmだった。   上記の3例を参考にして、 櫓の中で鐘を突く事や、周りに3重櫓や多聞櫓が建ち並んでいた事を考えると、 かつて鐘撞堂に据えられていた「高さ1.3m、幅75cm」の鐘の音が明確に聞こえる範囲は せいぜい半径500mといったところだろうか。 鐘撞堂から、侍町や町屋がある外堀の外側までの距離は、 南側は約260m、西側は約220m、東側で約370mと、それぞれそれなりに距離があるので 城下町で鐘の音が聞こえていたのは、外堀近くの一部地域に限られていたと思われる。 その他の地域は、また別の場所に鐘撞堂があっただろうから それを聞いて大まかな時刻を把握していたのでしょう。    その12はここまで。                               ~ブログランキング参加中~                良かったら↓アイコンをクリックして投票お願いします                                                                  アイコンをクリックするだけで投票できます              ※Ctrlキーを押しながらクリックすると別ウィンドウで開きます close

福山城 「12」 人質櫓跡~鐘櫓(鐘撞堂)
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投稿日時 2017-06-09 01:01:08

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