久留米城 [1/2] 筑後川を背後に持つ総石垣の堅固な平山城の詳細

久留米城 [1/2] 筑後川を背後に持つ総石垣の堅固な平山城
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記事タイトル 久留米城 [1/2] 筑後川を背後に持つ総石垣の堅固な平山城
概要

久留米城(くるめじょう)は九州北部、有明海へ流れる筑後川の中流に位置する平山城で、総石垣を持つ近世城郭であった。戦国期は蓮池氏・龍造寺氏が領していたが、秀吉の九州平定後で小早川隆景に筑前筑後が与えられ、久留米は養子の小早川秀包に与えられた。秀包は水堀・総石垣に天守を持つ近代城郭と…… more して整備を行い、関ヶ原後に城主となった田中吉信・有馬豊氏によって拡張され完成されたという。明治の廃城令で廃城処分となり建物は売却・解体された。本丸は篠山神社となり、高石垣および一部水堀が良好に残っている。二ノ丸・三ノ丸はブリヂストン創業の地(現 久留米工場)となった。 <基本データ> ●名称:久留米城 (Wikipedia) ●所在:福岡県久留米市篠山町 (地図) ●城主:小早川秀包 / 有馬豊氏 ●築城:1587年 / 1621年 ●遺構:石垣、水堀、桝形虎口 ●時間:1時間30分 (1130−1300) ●情報:続日本百名城 No.183 (一覧) 訪問時期:2019年6月久留米城 訪問記 − 其の一、二。 <訪問記> JR久留米駅から北東へ。ブリヂストン通りと名付けられた太い道を北上する。世界を代表するタイヤメーカー・ブリヂストン創業の地だとか。右も左もブリヂストン工場。このあたりは かつて久留米城の三ノ丸跡で、しばらく進むと交差点のところに石碑が建っていた。石碑の横には「濠で囲まれた方形の郭で、御蔵屋敷・御蔵番屋敷と五名の家老屋敷が置かれていた」とある。この石碑の交差点を左へ曲がる。先へ進むと、今度は久留米城二ノ丸跡の石碑。「四方を濠で囲まれた台形状の郭で、藩主が生活した二ノ丸御殿があった」とある。一帯は工場と駐車場で、面影はない。三ノ丸・二ノ丸を越えてくると、いよいよ久留米城 本丸跡へ到達する。奥の森の向こうが本丸跡。現在は篠山神社となっている。別の場所にあった説明板だが、これで本丸全景を確認。現在は地図下部の「大手口」手前あたりにいる。内堀に架けられた土橋を越えて、かつて7つの櫓が多聞櫓で繋がれた巨大な本丸へ。北側は土塁で、古絵図を見ても北面は土塁になっており、元々石垣は無かったようだ。なお内堀は南側にしか残っていないが、当時は北東南と三方を囲んでいた(西側は筑後川)。では城内へ向かおう。水堀に掛かっていたかつての土塁。今は車を入れるためだろうか、全面的にコンクリートにされている。よって先の門跡などでも礎石等は見られない。土橋から向かって右側(東)を見下ろす。かつての水堀は干からびている。高い石垣が見えるが、その上に(木々で見えないが)もう一段石垣があり、その上に三層櫓(巽櫓)が建っていた。向かって左側(西)を見る。こちらは目の前に櫓台がそびえ、巨大な本丸枡形の櫓門が載っていた。本丸桝形虎口の入口には、一の門である冠木門があったという。今はコンクリートガチガチで面影なし。久留米城の石垣は概ね打込み接ぎだが、隅部はしっかりと直方体に加工された石材で算木積みが形成されている。本丸の桝形虎口 内部。桝形虎口が本丸の内部に作られている、内桝形虎口 形式。桝形虎口の中にあった久留米城 説明板。枡形を越えた先に石碑が建ち並ぶ一角がある。低い石垣は、ここにあった太鼓櫓の土台のようだ。太鼓櫓跡から、内堀を見下ろす。かつての水堀跡は、全体的に干からびているようだ。訪問時は6月末。水の溜まっている写真も見たことがあるが、梅雨明け直後でもこの状況だった。太鼓櫓跡から本丸南側の土橋方面を見る。結構高い。では本丸内部へ。現在は篠山神社が鎮座。篠山神社 拝殿。本丸内には、有馬氏の資料を展示する有馬記念館(有料)と、社務所(続百名城スタンプはここ)がある。その脇には、古い建物が一つ。雨戸が閉められ、立ち入りも出来なかったので外観のみ。ちなみに事前予約すれば無料で内部見学も可能だとか。先程の建物は「東郷元帥旧書斎」とのこと。連合艦隊司令長官・東郷平八郎が若き頃に使用した東京・麹町の書斎を久留米出身の実業家が買い取り、久留米に寄贈したという。戦後荒廃していたがブリヂストン創業者の石橋正二郎氏により有馬記念館を建築寄贈する際に旧書斎も隣に移築・復元したという。本丸の西面へ。開けている。かつては多聞櫓が建っていた場所。城の北西を流れる筑後川が眼下に見える。そのまま北へ進むと乾櫓跡(いぬい・やぐら)へ。乾櫓からは筑後川が間近に見えるはずだが、竹林が生い茂っていて今は全く見えず。かつては対岸の肥前国からもこの乾櫓の威容がよく見えたことだろう。三層櫓。乾櫓あたりから、西面の石垣を見るも、草ボウボウだった。ちなみに東郷旧書斎の裏あたりに石垣が張り出した部分(木々が生い茂っているところ)は水手御門跡で、古絵図によると外枡形虎口となっているようだ。現在は立入禁止で詳細不明。大井戸。城内には3つの井戸があったという。もう1つは有馬記念館の前に、残り1つは埋められて失われたようだ。本丸北側の、多聞櫓跡。北側斜面は土塁となっており、木々が生い茂っていて全く下が見えない。よく見ると瓦片が大量に埋まっている場所もある。かつてここに多聞櫓が建っていた証拠。城の北東端、艮櫓跡(うしとら・やぐら)。三層櫓だった。艮櫓跡へ行ってみると、石垣の天端がガタガタだった。崩れて、適当に置き直したのだろう。一番奥の石はキレイに矢穴が残っている。ちなみにこの真下はかつて内堀だったが、今は埋め立てられている。艮櫓跡から南へ向かう。下を見るとなかなかの高さだ。石垣の周囲で凹部(櫓台と櫓台の間)は今は駐車場になっているようで、多くの車が停まっていた。本丸東側の張り出し部へ。こちらの張り出し部は巨大で、本丸下へ降りる石段と、本丸内唯一の二層櫓だった月見櫓、そして長大な多聞櫓が建っていた。このあたりは多聞櫓エリア。正面が月見櫓跡。その奥には本丸下へ降りる石段が残る。現在の南正面としたのは有馬豊氏で、その前の小早川秀包〜田中吉信の時代まではこちら東正面だったとか。月見櫓前にあった久留米城跡案内マップ。分かりやすい。実は本丸枡形虎口あたりにも同じものがあったが、そちらはかなり剥げていて読めなかった。なお図には示されていないが、図左側の張出し部は「水手御門」跡。ちょうど社務所の裏手にあたるので、入れないようだ。案内マップに掲載されていた、昭和初期に描かれた久留米城の図。各櫓間をつなぐ多聞櫓が二層構造になっている。月見櫓跡の前に建っていたのは、なぜか「聖徳太子像」だった。篠山神社 本殿。本丸内部のほとんどは、本丸御殿が建っていたという。発掘調査はされていないようで、すれば御殿の礎石跡などが出てくると思われる。歴代藩主が政務をとったところ、とある。石積みの上に小さな石造りの祠があった。こちらは「小早川神社」。篠山神社の祭神は有馬氏だが、その前の城主だった小早川秀包は、ここ小早川神社の祭神として祀られていた。石扉にはアンドレアス十字(斜め十字「X」)が確かに大きく凸で刻まれていた。 >> 久留米城 [2/2] へ続く。<< 訪問時期:2019年6月撮影機器:FUJIFILM X-T20 + XF10-24mm 一番上へ戻る。 close

久留米城 [1/2] 筑後川を背後に持つ総石垣の堅固な平山城
サイト名 城めぐりチャンネル
タグ お城 続日本100名城
投稿日時 2019-09-20 04:40:05

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