山梨・岩殿山城 ~ 見た目のインパクトの強い山城の詳細

山梨・岩殿山城 ~ 見た目のインパクトの強い山城
気ままな古城めぐりのご報告
ページの情報
記事タイトル 山梨・岩殿山城 ~ 見た目のインパクトの強い山城
概要

先週末は愛馬の出走はありませんでした。一時のラッシュが嘘のような静けさ。ですが・・・いよいよ今週末、3頭の出資2歳馬の先頭を切ってレッドヴェイパー(2歳牝馬:安田隆厩舎:東京ホースレーシング所属)が函館で北村友騎手鞍上でデビュー予定。自分としては初の栗東所属馬になります。さすがに…… more 函館まで行く予算はまだなく、Gchで応援します! で、今回は城巡りアーカイブスネタでまいります。西から一転、東へ。山梨県大月市にある岩殿山城跡です。ここはJR中央本線からでもハッキリ見えて、山腹の城跡看板が強烈でして、早く行きたくてしょうがなかったお城だったのです。が、当時名古屋在住だった自分にとって、大月はかなり時間距離がある場所で後回しになっていました。登城は2010年5月1日。GW真っ最中に自家用車で深夜に名古屋を出発。東名のSAで車中泊をし、渋滞によるロスタイムを最大限に回避して登城しました。体力勝負の城攻めの際に車中泊までしたのは後にも先にもこの時一回限りです。 ちなみにこの城があった岩殿山は標高634m。東京スカイツリーや、上杉景勝や直江兼続の故地・坂戸城と全く同じ高さなんですよね。 ○岩殿山城 このお城はこの界隈では有名なお城なのでご存知の方が多いかと思います。城の南麓に大きな駐車場「岩殿山公園駐車場」があります。そこから登城口へ。写真の右手の階段が登城道の始まりです。 15分程度登ってきたところに「ふれあいの館」というのがあって、そこにあった案内板。図の真ん中、「丸山」が現在地です。今の登城ルートは本来の大手道ではないようです。ルートの西側に大手門とありますので。 ここから見上げた岩殿山はその特徴の岩肌がすばらしい!この日は快晴で岩肌と緑と青空のコントラストがいいですわ!登城というより、登山。完全に「岩山登山」です。 登城道沿いでは最初に「遺構」らしきものに遭遇するのがこの揚城戸跡。大手道から来ればこれが第二の門になります。門、というより岩の隙間です。 番所跡。この岩殿山の頂上部以外ではこれでもかなり広い敷地です。先ほどの揚城戸近辺を守る西の関門です。 本丸から西側にやや下がった位置に石碑が。これ確か、乃木将軍が揮毫したものではなかったでしょうか。ここに到達する前の遺構らしきものは馬屋跡でしたが、馬で上り下りする城ではないような気がします。 この図面によると、城の大手は明らかに西側にあって、南側から登る今の登城道はその大手道に途中から合流するようでした。見ようによってはツインピークスの岩殿山の西側のピーク。ここは西南への眺望が良く、「南物見台」があったとされています。 城の詳細。うーん、そんなに多くの建築物があったようには思えませんでしたが。周辺に睨みを利かすには格好の城地選定だとは思います! 一応、本丸・二の丸・三の丸の区別はあるようで。 ここはそう相応に広い敷地が確保できています。ちなみにここは馬場跡とされています。この城内では珍しい真っすぐな平面が、それを思わせます。ここで馬を走らせる必要があるかどうかは別の問題として。先ほどのツインピークスのうちの東側が本丸相当です。 この城に登ったらやはり期待したいのがこの景色。天に聳える富士山!!5月のはじめだとまだけっこう雪を被っています。ここでも青空と新緑と白い雪峰のコントラストが素晴らしい! この城の高さと絶壁ぶりがわかりますね。ほぼ中央自動車道も桂川も真下と言ってよい位置に見られます。この桂川に沿って進めば、道は関東平野の武蔵・相模国へと開けていきます。 実は西側のピークには大きな目立つ露岩があったんですよね。平成11年まで。私が見た日本城郭大系や、その記事を元に編集された城の本の写真には、この露岩が映っています。真下が中央自動車道という事もあり、崩落の危険が指摘されて破砕撤去されたそうです。 中央自動車道はかつて、この岩殿山の大規模崩落が原因で4ヶ月もの期間通行止めになった事があります。それを考えての対応だったのでしょうね。 いかがでしょうか。山城を楽しむという観点において、この城は国内有数の山城であると思います。遺構がどうのこうのという前に、山城に登る楽しみとは何か?を教えてくれる城ですね。 上級者でまだの方ならやはり行っておかなければならないでしょう。山城初心者や、関心・興味はあるけどまだ行ってみたことは・・・という方にとってはその第一歩としても。 ぜひ、登城していただきたいお城跡です!! ○岩殿山城とは? これはこのブログを見ていただいているようなレベルの方なら余計な部分でしょう。あくまで一般論としての岩殿山城について簡単に述べさせていただきます。 甲斐国のうち、「郡内」と呼ばれていた今の大月や都留地方を中世に治めていたのは小山田氏です。その小山田氏は都留郡に本拠を置き谷村に館を構えていました。この岩殿山はその詰めの城として築かれた(というより設けられた)と言われています。よくある、中世の館と詰めの城の位置関係としてはかなり難しい説ではあるのですが・・・。城の構造からいって、後の大規模山城のように城主や家臣団が城内で暮らすものとは思えず、結果的に詰めの城であると考えられるようになり、小山田氏の拠点がこの大月にあって岩殿山が詰めの城になった、という解釈がされるようになったのではないかと思います。小山田氏の拠点が大月ではなく都留であると考えるとこの説は成り立たず、城は小山田氏のものではなくて、小山田氏を服従させた武田氏の築城による国防&出兵拠点だったのではないか?というのも有り得る話です。 城として存在が明らかになってくる前、この山の南東麓には天台宗系の円通寺という平安時代創建になる古刹があり、修験道の拠点として大変栄えていたそうです。都留郡で勢力を拡大していた小山田氏がこの大月=郡内北部に勢力を安定して扶植したと思えるのは、甲府盆地に本拠を置く甲斐守護・武田氏に従属するようになった戦国中期のようです。 城は桂川と葛野川を堀に見立ててその合流点に近い岩殿山に築かれ、城の南側は鏡岩と呼ばれる礫岩の絶壁に守られています。東西南北すべて絶壁状態に近く、比較的接近できるのは東西からのみ、かつ狭隘な険しい道を進まなければいけないという完璧に近い自然要害です。しかし、その分城内に置ける防御施設の設置は限られており、あくまで天険を活かした防御を前提とした城でした。 この城は築城当時から東国では堅固な山城として知られていたようですが、その効果が実証されるような籠城戦は伝わっていません。この名が後世に有名なのはその堅固さからではなく、武田氏滅亡に伴う小山田氏の去就によってでしょう。 1582(天正10)年2月、信濃・木曽谷の領主にして武田氏当主・勝頼の妹婿である木曽義昌の内通に端を発した織田信長の討伐軍を前に、かつて戦国最強とまで謳われた武田軍は全面崩壊。叔父・信廉や、従兄弟・信豊など一族ですらそのほとんどが守備を放棄して逃亡。父・信玄の従兄弟であり勝頼の姉婿である穴山梅雪も徳川家康を介して織田軍に内通。持ち場を守り最後まで武田氏と勝頼に殉じたのは、信濃の要衝・高遠城を任された実弟・仁科盛信だけと言ってよい状況。勝頼はもはや支える事ができず、拠点を移したばかりの新府城を捨て、落ち延びるしかありませんでした。 勝頼は最後まで支えてくれている重臣二人に、今後の対応を尋ねたとされています。一人は真田昌幸。信玄に昌幸の父・幸隆が仕えて以来の重臣ですが信州の出身で武田譜代というわけではありません。彼は自身の持ち城の一つで、上州の要塞にして堅固な山城である岩櫃城を退去候補に挙げ、勝頼に遷座を薦めました。堅固な地・岩櫃に拠点を置いて時間を稼ぎ、同盟している隣国・越後の妹婿・上杉景勝と連携して北条氏の旗色を窺い、織田・徳川の勢いを削いでいずれ反攻に転ずる作戦であったと思われます。岩櫃は一見、手狭な山城ですが、街道を扼して信州・上州・越州のいずれとも連携ができる上、真田と武田の威令が届く場所。勝頼はその言に従います。 昌幸は急ぎ岩櫃に戻り、勝頼を迎えるための屋敷を建てるなど手配りを行いました。一方、妹婿・景勝も御館の乱後、かつ自身も越中方面で柴田勝家麾下の織田の大軍と対峙する厳しい状況の中にありながら、援軍を派遣しています。新たな支配地域である上州、同盟して間もないかつてのライバルは勝頼を救うべく厳しい展開の中で最善を尽くそうとしていました。 しかし、勝頼は岩櫃には向かいませんでした。もう一人の重臣・小山田信茂が自身の支配下にある同じく堅固な山城として有名な岩殿山城への退去を強く薦めたからです。小山田はかつては甲斐国内の強力なライバルとして武田氏と争いましたが、信玄の父・信虎の代に祖父・信有(父も兄も信有を名乗っているのでややこしい)が臣従して以来、姻戚となり「半独立」ともいえる立場を守りながらも、多くの譜代家臣を失った武田家中においてその地位は最大となっていました。本当のことは今となってはわかりません。しかし、遠くてかつ2代の重臣である昌幸よりも、近くて3代の重臣である信茂の言を、周囲にいた勝頼の近臣らは信じたと思われます。勝頼の近臣のほとんどが甲斐国内の出身。今の地域性からは理解しにくいですが、この感覚が結果として勝頼が岩殿山に向かった最大の理由でしょう。 また、郡内・小山田氏は武田家中に収まった後も隣国・相模の北条氏の影響を排除できませんでした。ひょっとしたら、北条氏政あたりから信茂はそそのかされていたのかもしれませんね。氏政の前妻・黄梅院は勝頼の異母姉。勝頼の後妻は氏政の異母妹。この時すでに北条氏は織田・徳川と手を組み武田領への進出を図っていましたが、勝頼に昌幸の許に逃れられては先々面倒と考え、信茂に「郡内を通り関東に落ち延びさせては?その時は喜んで迎えよう」などとささやいていたのかも・・・。信茂が当初から信長に降伏するつもりではなかったであろう事は、その後の処断の差が物語っています。彼は本気で勝頼を岩殿山に迎えて北条氏の後援を頼み、それでもダメなら共に関東に一時逃れようと考えていたのかもしれません。距離感や歴史を考えればこの方がはるかに現実的です。 しかし、信茂は結果的に「変心」しました。勝頼の郡内入りを拒み、追い詰められた勝頼主従は3月11日、田野の天目山で最期の時を迎えたのです。信茂は信長に臣従するべく、人質となる嫡男らを連れて甲斐府中に出向きました。木曽義昌や穴山梅雪など、武田の親類衆でも臣従を許されているのだから、自身も人質を出せばかつて小山田氏が武田氏に臣従した時のように受け入れられると思ったのでしょうか。 信茂は信長に会うことすら許されなかったようです。もはや武田そのものが滅亡してしまった今となっては、討伐が始まる前に内通していた義昌や梅雪ならともかく、信茂に対して信長は何ら前向きな感情を持たなかったのでしょう。討伐軍の事実上の総司令官であった信長の嫡男・信忠によって「裏切り者」として信茂の一族は甲斐善光寺にて3月24日処刑されました。信茂は享年43歳であったとされています。 岩殿山城と郡内は、一時は信長の配下で甲斐一国(穴山領を除く)を宛がわれた河尻秀隆の領するところとなりますが、ほどなく本能寺の変が勃発。秀隆は一揆勢に攻められ敗死し、甲斐は徳川・北条の争い(天正壬午の乱)の主戦場となりました。その過程で郡内・岩殿山城には相模で対峙していた津久井城主・内藤綱秀が進出。北条氏にとっては、してやったりの展開ではあったでしょう。天正壬午の乱が終結した後、郡内は徳川の支配下に置かれています。 岩殿山は、小山田氏が滅亡した後明確に城主が充てられ管理されていた様子は見えません。ただ、この地方が接する武蔵や相模、駿河が甲斐と同じ勢力の領主となるのは関ケ原合戦の後ですから、少なくとも江戸時代初期までは甲州街道を見下ろす城塞としての機能を保っていたのではないかと考えられます。時代背景的にも政治権力的にも、このような「堅固な山城」「境目の城」が必要なくなった事から、江戸時代中期までには廃城となったと思われます。 ○行き方 ここは著名なので簡単に。車でも行けますが、徒歩で行くのが一番楽しいかと思います。JR中央本線・大月駅下車です。登城口まで15分程度で、山頂の本丸跡までは1時間程度です。道に困る事もまずないでしょう。すぐ目の前に常に城がありますからね。 車であれば中央自動車道の大月インターで下り、出口交差点は左へ。国道20号線を大月市街地方面に進み、大月駅前を過ぎて「高月橋入口」の交差点を左折します。国道139号線に入る事になります。この段階で目の前に城が見えます。JRの跨線橋を越えて、道なりにいくと中央自動車道の岩殿トンネルの真上にあたるあたりに、左折して公園駐車場に下りていく道があります。私はこの曲がり口に一度は気付かず、そのまま先へ進んでからターンして確認して気づきました。この場合は右手に曲がり口があるので、意外とすんなり発見できました。 徒歩でも車でもアクセス良好で、晴天の日ならその景観は期待を裏切る事はありません。ここが100名城にも続100名城にもなっていないのは不思議ですねえ。ぜひ、登城してみください! close

山梨・岩殿山城 ~ 見た目のインパクトの強い山城
サイト名 気ままな古城めぐりのご報告
タグ
投稿日時 2019-06-13 15:40:03

「山梨・岩殿山城 ~ 見た目のインパクトの強い山城」関連ページ一覧

新着記事一覧

<打込み接・布積み(関八州)> 江戸城、小田原城、佐貫城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹...
シロスキーのお城紀行
2022-09-26 01:00:04

中城城 日本100名城 沖縄 路線バスで行く世界遺産5城 5-4


hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
 ◆中城城 三の郭の石積 またかなり間が空いてしまいました。引き続き3月中旬に久々に沖縄、世界遺産5城を2泊3日で路線バスを利用して...
hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
2022-09-25 14:40:05

<打込接・布積み(奥羽・出羽)> 弘前城、盛岡城、仙台城、会津若松城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を日本の北から南まで展開しているお城の写真をお届けしてきましたが、昨日で一応終了...
シロスキーのお城紀行
2022-09-25 02:00:03

讃岐小豆島 星ケ城  西峰と東峰から成る素晴らしい眺望の山城


久太郎の戦国城めぐり
讃岐小豆島 星ケ城 (香川県小豆郡小豆島町安田・星ケ城山) <県指定史跡> <ちょっと小豆島まで行ってきます・②>坂手港から安田館を訪問した後...
久太郎の戦国城めぐり
小豆島の城めぐり
2022-09-25 01:40:03

第439回:江馬氏下館(北飛騨における江馬氏の繁栄を示す城館跡)


こにるのお城訪問記
訪問日:2021年11月江馬氏下館(えまししもやかた)は岐阜県飛騨市にあった城館です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。北飛騨の雄...
こにるのお城訪問記
岐阜県の城郭
2022-09-25 01:20:03
;