相方城 [2/2] 主郭の東西および南面に美しく積み上げられた高石垣をじっくり見る。の詳細

相方城 [2/2] 主郭の東西および南面に美しく積み上げられた高石垣をじっくり見る。
城めぐりチャンネル
ページの情報
記事タイトル 相方城 [2/2] 主郭の東西および南面に美しく積み上げられた高石垣をじっくり見る。
概要

相方城 訪問記 其の二。 [前回までの訪問記 概要] 山頂の両郭群の間にある駐車場から散策スタート。石垣で囲われた単純な構造の西曲輪を見た後、大竪堀を越えて主郭へ。主郭の手前には竪堀からそびえるように築かれた石垣造りの小曲輪があり、そこを経由して主郭の高石垣上へあがる構造だったよ…… more うだ。其の二では主郭の東側を散策する。 訪問時期:2018年4月 相方城 訪問記 − 其の一、二。 <訪問記> 主郭全景。主郭はかなり東西に長く、奥の木の奥に見える鉄塔あたりが東の端となる。削平具合も西曲輪とは異なりしっかりとされている。 駐車場にあった図面を再掲。現在は東側郭群の左側、郭3(主郭手前にあった小曲輪)から郭2へ入ったところあたり。 入ってすぐに謎の大穴。水溜井戸の跡かとも思ったが、イノシシの類が掘った穴っぽい。 主郭に建つ城址碑。こちらも駐車場と同じく、佐賀田城。土台の巨石のいくつかはかなり地面に埋まっているので、もともとここにあった巨石群の上に(いくつかを加工して)載せたのだろう。 佐賀田城(相方城)城址碑の裏にある説明書き。「佐賀田城は室町時代の末、有地民部少輔元盛の築城になる。有地氏は宮氏より分かれ、代々芦田郡有地に住し姓となす。元盛は毛利氏に属し各地に転戦し、石山合戦には将として勇名をとどろかす。天正十七年 山城禁止令により廃城となり、遺構の一部は天王社に移す」。備後の有力領主だった宮氏が毛利氏との戦いに破れ滅亡、一族だった有地氏は離反して毛利氏に付き、幕末まで続いた経緯があるという。また石碑には天正17年に廃城とあるが、駐車場の説明板では関ヶ原合戦後に毛利氏がそれまでの備後を含む10カ国から周防長門の2カ国に領土を削られた際、有地氏もそれに従って移り、相方城も廃止となった、とあった。それにしても天正十七年(1589)の「山城禁止令」とは? 城跡碑あたりからの眺望。手前を流れる川は芦田川、福山から瀬戸内海に通じる。当時は重要な開運を担っていただろう。 では奥へ向かおう。駐車場に記された縄張図ではこの主郭は東の郭1と西の郭2に分かれて描かれていた。このあたりに微妙に段差が見て取れるので、このあたりが郭1と2の境目ぐらいだろうか。説明板には発掘調査で郭1の西側(このあたり)に一間×二間の掘立柱建物跡も見つかったとあった。 矢穴跡が残る巨石。下半分ぐらいが地面に埋まっているので、城のあった当時からずっとここにある。 北の斜面側から見てみると、こちら側は矢穴に沿って割った跡が残っており、上部も平らになっている。建物の礎石として利用していた? 先の矢穴跡は、これを更に半分に割ろうとしたが何らかの理由でやめた跡、ということだろう。それにしてもすごい急斜面! 主郭北側の急斜面と、山麓の様子。こちら側から攻め上がるのはどう考えても難しい。木々を切っていると、山麓からは、急峻な山の上に、石垣や櫓などが建ち並ぶ、まさに山上の要塞の様相が見えただろう。すごい! 主郭の東の奥まで。左に写っている柵は、主郭東端に建てられている鉄塔のある建物のもので、RCC中国放送のテレビ電波塔のようだ。この先には一段低くなった場所に東曲輪(説明板の図面で言う郭5)があり、右脇の小道から下に通じていた。 郭5へ降りてきた。主郭からは東に二段曲輪が続いており、郭5の下には一番東端の郭7がある。郭5から郭7を見下ろした図。結構な段差があるようだ。この真下には、石垣が築かれている。ココからは降りれないので、南側から回り込む。 郭5の南側には石垣の切れ目があり、南側の城道へ降りる虎口となっていた。 郭5南側の虎口の石垣。しっかり積み上げられている。 郭5の南虎口石垣。左側は主郭に通じる一段高い曲輪(郭4)。草が覆っており分かりづらいが、隅部はキレイな切石だが、なんとここだけ算木積みになっている。 ここから更に東へ、一番奥の郭7へ。 郭7から見た、郭5東面の高石垣。崩れず良好に残っており、見どころの一つだ。この隅石は算木積みではない。 郭5東面の石垣。櫓台のように台形に切石がキレイに積み上げられている。隅部に反りは全く無い。 北側はツタに覆われていたがしっかりと石垣が積まれているようだ。 石垣を細かく見ていると、三角の形をした石が埋め込まれていた。遊び心という時代でもなさそうなので、どういう意図だろう? 郭7から郭5、郭4、主郭方面を見る。右側(北側)は土ベースなのがよく分かる。北側には芦田川が流れ街道沿いなので、そちらの防衛目的ではない、南側の集落側に見せるための石垣だったのだろう。 少し斜面を降りてみて、その北側の急斜面ぶりを見る。 では主郭の南の城道を通って駐車場方面に戻りながら、主郭南面の石垣を見ていこう。何かの小屋が建っている少し開けた場所は、主郭南の郭6にあたる。小屋で行き止まりのようにも見えるが、脇を越えて奥に行く事ができる。 小屋を越えて奥へ。左側はまた斜面で、石垣ギリギリのラインに細い道が造られている。 こちらも算木積みにはなっておらず、荒く直方体に加工された石材が素直に積み上げられているような印象の石垣。郭5南の虎口部のみ、算木積みになっていたようだ。あそこだけ毛利時代など新しい石垣なのだろうか。 反対側から見ると、さらにその古い印象が強い。 どんどん西へ進む。石垣の高さは高くなったり低くなったりしている。地形に合わせて石垣を積み、上を削平した名残だろうか。 中央あたりは石垣が途切れていたのだが(もともと無かったというよりも、持ち去られた印象)、隅石垣だけ一本建っているような場所も。 郭2へスロープで上がるような場所から、再び石垣へ。 郭2の南東石垣。矢穴で割られた角石材が使われているが、ここも算木積みになっていない。 右側奥の石は自然石だろうか。相方城のある山にはもともと巨石が多く存在していたのだろう。 時代の割には野面積みではない、表面をきちんと合わせて加工した打込み接ぎとも言える石垣が高い精度で築かれ、廃城から400年が過ぎてもこうしてまだ崩れることなく積み上がったままの相方城石垣。まさに圧巻。 元々ここまでしか築かれてなかったのか、しっかりと石垣が終わっている印象。其の奥はスロープで、もう少し先に行くとまた低い石垣から始まる。中央部が抜けている印象。下からよく見える場所にだけ築いたのだろうか。 結構な巨石も積み上げらている。毛利氏時代にここを修復した記録は見つかっていないことから、有地氏の石垣とも言われる相方城、だとすると時代は天正期、有地氏は独自でかなりの技術を持っていたことになる。謎多き相方城の高石垣をぜひその目で確認しておきたい。 訪問時期:2018年4月 撮影機器:FUJIFILM X-T10 + XF10-24mm – – – – – – – – ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^) 投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね! ページの一番上に戻る   close

相方城 [2/2] 主郭の東西および南面に美しく積み上げられた高石垣をじっくり見る。
サイト名 城めぐりチャンネル
タグ お城
投稿日時 2018-08-20 02:00:01

「相方城 [2/2] 主郭の東西および南面に美しく積み上げられた高石垣をじっくり見る。」関連ページ一覧

新着記事一覧

<打込み接・布積み(関八州)> 江戸城、小田原城、佐貫城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、昨日から、下記の分類表「①②-(4)打込み接・布積み」の石垣を導入しているお城を、再び日本の北から南にかけてご紹...
シロスキーのお城紀行
2022-09-26 01:00:04

中城城 日本100名城 沖縄 路線バスで行く世界遺産5城 5-4


hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
 ◆中城城 三の郭の石積 またかなり間が空いてしまいました。引き続き3月中旬に久々に沖縄、世界遺産5城を2泊3日で路線バスを利用して...
hachiの日本100名城 続日本100名城 お得な切符で行く 鉄道・バスの旅
2022-09-25 14:40:05

<打込接・布積み(奥羽・出羽)> 弘前城、盛岡城、仙台城、会津若松城


シロスキーのお城紀行
「石・石塁・石垣シリーズ」は、「①②-(3)打込み接・乱積み」を日本の北から南まで展開しているお城の写真をお届けしてきましたが、昨日で一応終了...
シロスキーのお城紀行
2022-09-25 02:00:03

讃岐小豆島 星ケ城  西峰と東峰から成る素晴らしい眺望の山城


久太郎の戦国城めぐり
讃岐小豆島 星ケ城 (香川県小豆郡小豆島町安田・星ケ城山) <県指定史跡> <ちょっと小豆島まで行ってきます・②>坂手港から安田館を訪問した後...
久太郎の戦国城めぐり
小豆島の城めぐり
2022-09-25 01:40:03

第439回:江馬氏下館(北飛騨における江馬氏の繁栄を示す城館跡)


こにるのお城訪問記
訪問日:2021年11月江馬氏下館(えまししもやかた)は岐阜県飛騨市にあった城館です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。北飛騨の雄...
こにるのお城訪問記
岐阜県の城郭
2022-09-25 01:20:03
;